0 出会いと腕輪 みんなに公開
その日の深夜1時、花森健人は夜の朝憬市東部をあてもなく歩いていた。茫然自失の徘徊と言ってもいい。未だ家のベッドで眠りたくもあったが、目が冴えた今は何よりも現実から離れたかった。
脳裏に浮かぶのは、誰に何が出来ていると言えるのか、何もわかることはない福祉施設のアルバイト。そこでの上司の言葉。
「あんた、何も出来ないね」
そちらに言われたくはない。俺とそちらは同類だ。違いなどどこにもない。皆、お気楽にも救いを騙るだけ、そのために酔っ払っているというだけだ。自身の内だけで彼らを同一視し、そう吠える負け犬と共に、家の玄関を開けて外に出る。
とっくに日の沈んだ街並みは、人の眠りと共にその雑踏と電灯の光を消していた。本来なら夜の危険は世の常であるが、この時だけは、抱えた厭世ごと自分さえ消えられたような錯覚が出来た。
季節は2月。来月には18になるが、健人の自我は危機に瀕していた。理由は一言で言えば自身も含めた人への諦念だった。始まりは、苛めに傷つく誰かが泣いて、傷つけた誰かが嗤っていたことか。健人としては、その虚しさと怖気に歯向かい、可能な限りは人に優しくあろうと努めたつもりだった。
しかし現実問題、彼は愚鈍であり無能、そして無力だった。自他共に事情や思いが複雑に絡まっている世界をまるで認識しきれず、故に気取った優しさも本質を欠いた欺瞞でしかなかった。そして無能と無力はまた、常に人々との軋轢を生み、自身の中でその影を色濃く拡げていた。
人は皆、それぞれに抱えたものと、抱えた誰かとの関わりから逃れることはできない。独り善がりの果てに、それをようやく理解した時には、健人はこの夜を彷徨っていた。
「どうするか…」
朝の迎え方もわからず、ただ現実に怯え、昔兄貴分に連れられた展望台に向かって進める歩み。だが自己を守る思考も別にないつもりだ。でなければこんなことは出来ない。漠然と死にたいのだろうかと考えるも、そんな問答さえ陳腐なもののような気がした。だったらーー。
「どうでもいいか」
展望台前に位置する上り坂に辿り着き、そう呟く。その時、不意に誰かの声が聞こえた。
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それは、啜り泣く若い女性の声だった。すぐさま身構える。こんな真夜中、街からは離れた場所で、姿の見えない女性の泣き声など聞いた日には、粋がった自棄よりも備わった自己保存からくる怖れが優先された。それが却って滑稽だったが、次に聞こえた涙声は、引き返そうとする健人の足を止めた。
「私は、なんのために生まれてきたの?」
悲しみと痛みを携えたその言葉は、現実に聞こえたその思いと響きは、いつか何処かで聞いた覚えのあるそれであり、花森健人の空虚な心の始まりとほぼ類似しているように彼には思えた。だからだろうか。そこから動くことが出来ない。けれど、わからない。その問いへの答えなど到底持ち合わせていない。息が上がり、目が見開かれる。そこに浮かび上がる心。それはーー
目にしてきた人の悲痛。
それを生むものへの怒り。
しかし何も出来ない自分。
故に置いて行った。
忘れてきた。
面倒と蓋をしてきたもの。
「ねえ、皆の笑顔を守るんじゃなかったの?優しいことのためにーー」
そう問いかけてくる幼い頃の自分。砕け散った希望。それに向けて、一言だけ小さく告げる。
「ここが最期。"お前"の墓場だ」
そして健人は声のする方へと、展望台の階段を駆け上がった。
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階段を上がった先、暗がりと僅かな電灯の狭間から
朧気に見えたのは、まだあどけなさの残る少女の姿だった。その姿を認めると同時に、足が竦む。同時にようやく口がひどく渇いていたことを自覚した。動悸が自身の内に響くのは、最早、心霊現象のそれとしてではない。"最期"としたその時まで見切り発車である自分の行動に眩暈さえ覚える。そんな挙動不審な青年の口から、発せられるは動揺まみれの言葉。
「あ…えっと、待って。その…どうしたの?大丈夫、ですか?」
そんな健人の様に、遂にこちらに気付いたであろう少女が、弾かれたように顔を上げる。それが、夜の展望台の空気を震わせた。恐らく無用に怯えさせてしまったまま、彼女はこの場から去ってしまうだろう。それはそれで仕方ない。彼女が自分を守るための行動なのだから。そんな思いが頭の中を埋め尽くす。しかし彼女は不思議と、その場から動くことはなかった。こちらから顔を逸らすこともないように見える。こちらが危害を加える気などは決してないことは、汲み取ってもらえたのだろうか。そんな思いと共に、どうにかこうにか続く言葉を発してみる。
「いや、こんな夜中に独りでいたら、危ないから…さ。どうしたのかな、って…俺が言えた話じゃないけど」
静寂は続く。しかし少女は未だこちらを注視していた。一方で健人は、少女の反応が読み取れない緊張と動揺の中で、どう話すべきなのか混乱していた。何て言えばいいのか。君が心配だなんて、いきなりそんな気持ちの悪いキザや、見境のないことは言えない。それこそ、相手が求める言葉や考えなど、自分には永劫わからない。俺には、何もできない。わからない。そんな無力感を今だけは振り払い、頭痛までする思考回路から辛うじて言葉を紡ぐ。
「親御さんとか、心配してない?」
言いながら、しまったと思った。家庭的な事情がある可能性を考慮できていない。健全な家庭があるなら、こんな真夜中にこんなところにいるだろうか。自身の想像力不足が、忌々しいとさえ思う。事実、顔を落としたように見えた少女の涙声の返答は、半ば健人の予測通りのものだった。
「大丈夫、誰も心配してないから」
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