0 御意の成るように成る… みんなに公開

世人は言う。君たちクリスチャンが信仰する神は、ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとハマスとの戦争を黙認しているのか?と…。罪なき多くの住民が、幼子や年老いた人たちが、無残に殺されてゆくのを黙って見ておられるのか?全能と言いながら、歴史に介入して愚かなる戦争を止めさせることもできない無能な存在なのか?と…。聖書には、そのような神義論的問いに対してまともに答える言葉は無い。ただ、ヨブ記に示されているとおり、全能なる神を賛美することだけだ。そもそもそのような神義論的な問いというのは、真実の神を知らない人々によるものだからだ。戦争を止めるとか止めないとかいうのは、擬人化された偶像神のことを語っているにすぎない。真実の神は正邪善悪如何にかかわらず、およそ人間レベルの価値観ではとらえられない。十字架にかかって人類の罪を贖うために命を献げられたイエス・キリストの啓示の範囲では、あきらかに神は弱者のために立ち上がって正義を行われるお方であり、一刻も早く戦争を止めさせて然りであると言う人たちは少なくない。そのような神観、そのような意見が、キリスト教では大勢であろう。されどそれは福音書におけるイエスの記事に対する批判的解釈が不足しているのだ。イエスの愛敵のような言葉は状況倫理であって普遍化することはできない。格言の如き情況捨象による空言ではないのだ。教会の礼拝では、司式者による開会祈禱や献金での当番信徒の祈りにおいて、やたらと長ったらしく神への願い事として、戦争を止めさせて下さいなど言われることがありますが、牧師や信徒が何を願ったところで歴史は変わりません。戦争は起きるべくして起きるのであり、全世界の教会で祈りを合わせれば神が歴史に介入して戦争を止めさせて下さるなどということはありません。イエスが弟子たちに教えた主の祈りは、単なる願い事ではありません。その点は宗教改革においてルターよりもカルヴァンの方が正しい理解をしました。ということはカルヴァンは、主の祈りに付加された「国と、力と、栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という神讃美、頌栄が、主の祈りを含むあらゆる祈りの根拠であると言っているからです。すなわち「主の祈り」においては、神讃美(=頌栄)は本文全体にかかるのです(~『ジュネーヴ教会信仰問答』)。だから、願ってはいるのですがそれは表層的なことであって、深層としては、主の祈りは祈願ではなく讃美告白なのです。Deus vult です。私見では、その主旨は最初の3項で成立していると思います。すなわち、「御名」の崇敬、「御國」の到来、「御意」の地上実現…以上です。特に自分は3番目がすべてかなと思います。何を讃美するのかと言えば、要は、神の御意が実現することを讃美するのであって、人間はその聖なる定めを受け入れて、単に受け身ではなくて能動的に、歴史的現実においてその聖旨の実現の一部に主体的に成ってゆくということが信仰であり実践なのです。ということはどういうことですか?ウクライナの兵士たちも、あの大東亜戦争の状況において、ゲッセマネでのイエスのように死を前にした自己限定の葛藤の中で国を守り親愛なる人々を守るという大義に微かな希望を見い出してそこに尊い命を犠牲にされた日本のクリスチャン兵士をはじめとする心ある兵士たちと同様、戦いに出ることが自分自身に課せられた神の定めとして受け容れて死地に赴いておられるのだとすれば、その胸中を察すれば、教会の礼拝でぐだぐだと主観的な願い事を語り続けることの虚しさよ…それよりは、他人事ではなく自分事と引き寄せて、戦争継続にせよ終結にせよ、人知を超えたところで常に定められている聖旨に殉じる覚悟を、各人、心のうちに黙想なり瞑想する方が潔いのではあるまいか?要するに自分たちの願いを並べ立てる祈り(祈願)ではなく、イエスのゲッセマネの祈りの如く、自分の望みも言いながら、しかし最終的には神の御意に服従するという自覚です。それがイエスのように対話型になるのは、聖書が空なる神の自己対象化である啓示の媒体だからそのような描かれ方になるわけで、そもそも神は、対象と非対象を超えた空なんだから、本来的には語りかけではなく瞑想でよいです。神との対話は宗教的実存においては層としては浅い。層が深まれば非対象的になって然り。                          「実際、場所論的な『神』の場合、神への方向は瞑想にあるが、人格神の場合は祈りがふさわしく、私はそれを無用というつもりはまったくない。ただし、神信仰からして『摂理』について推論を立て、歴史においては必ず『正義』が支配するなどと断言すると、事実との齟齬が生じる。これは『神義論』としてすでに旧約聖書において問題とされたことである。『ヨブ記』がその例である。(中略)いずれにせよ、共同体の『歴史』を語る旧約聖書は人格神を立てる。それに対して新約聖書が個人の『自覚』を問題とする場合は(『ガラテヤ書』二章19-20節が適例)、『己事究明』をこととする仏教と同様に、言語は場所論的となり、神への方向は瞑想に求められる」(八木誠一著『創造的空への道』ぷねうま舎 p172 ※「場所論的」と言われているのは、「イエスの宗教」では正確に言うと「人格主義的要素を併せもつ場所論」であるから⦅『イエスの宗教』岩波書店 p1. p48、125も参照⦆、「人格神」信仰も場所論的要素を必ずしも排除しない。)                               信仰の核心は創造主なる神の御意に従う覚悟を持つということ。天に成るごとく地にも成るのであって、戦争は終結する方が望ましいし、たといそうでなくても神の御意が成るうえで自分を献げられるという信心を与えられていることこそ最高の歓び(JUBILATE)ではないか!
世界宗教について、一般的には一神教は好戦的であり多神教は平和的であるかの如く云われますね。私はそこに多くの誤解や誤謬が混じっていると思っているのですが、それはともかく。ところで、チャンネル桜の【討論】戦後日本と宗教[桜R5/12/20] (youtube.com)の中で、乙骨正生氏が言われた宗教の多元主義的なあり方というのは、世界史の現実が自分で言っておられるとおり、「世界宗教者平和会議」(WCRP)のバチカンにおける祈りとか決め事とは違う結果になっているとおりで、「神」の御意は成るべくして成るわけで、人間が自発的に何を言い、何を行おうとも、それが神の定めに一致していない限り実現しないのです。いくらその場で乙骨氏が感動したかしれないけど興奮気味に言ったところで、成るべきことでないから成ってないわけ。きれいごとの観念論なんですよ、そこで乙骨氏が言ったことは…(上記の動画の2:00:00あたりからどうぞ)。それを受けて富岡幸一郎氏は人権ではなく神権ということを強調したのはかろうじてクリスチャンを自称なさる立場を示しましたが、それでも宗教多元主義が必要だと言われたのはどうかなと思います。なお、上記の動画では上祐史浩氏の発言にも、キリスト教が二元論の宗教であるかのような誤解や汎神論を好評価するところもあって大いに反感を抱きました。
私見では、宗教多元主義は宗教の共生の前提とは言えません。それは、八木誠一氏や小田垣雅也氏なども批判しているとおりです。宗教多元主義というのは、必ずしも宗教の主旨に沿うあり方とは言えないからです。
小田垣氏の宗教多元主義への厳しい批判は、『コミュニケーションと宗教』(創文社)などに書かれています。特に「架空の高みに立って」云々などは我が意を得たりといった感じがします。(参考書評)_pdf (jst.go.jp)

私見では、宗教の主旨に沿ってなおかつ共生に開いてゆくあり方は、旧約のイスラエルの民における神信仰である拝一神教です。言わば相対的絶対主義です。下記を参照されたし。
<「シェマの祈り」の前半の部分(申六4)は、必ずしも一神崇拝に関わるものでも他の神々の排除に関わるものでもなく、あくまでヤハウェが二つも三つも別々に存在するのではない、ということを言わんとするものであったことになる。ただし、もともとの意図がそうであったとしても、現在の申命記では「シェマの祈り」は、他の神々の崇拝を禁じた第一戒を含む倫理的十戒(申五6-21)の直後に置かれている。おそらくはこの形になった段階で、「ヤハウェは我々の神、ヤハウェはひとり」というスローガンないしモットーは、すでに第一戒的な意味で、すなわちヤハウェのみを崇拝し、他の神々を拝んではならない、という意味に再解釈されていたと考えられる。しかし、その場合でも、それはあくまで「我々の神」(すなわち「イスラエル」の神)は「ヤハウェひとり」であるという、拝一神教的な意味で理解されていたはずである。というのも、後に見るように、第一戒そのものがあくまで拝一神教的だからである >(山我哲雄著『一神教の起源』筑摩書房p271~276)

ついでに関連すると思われる議論を引用しておきます。

「…対を絶するなら、もはやそれは他者とは言えない。従って、神とは他者ではなく自己として、すでに私たちただ中に生きて働いているその働きそのもののことなのではないか。イエスが神の国はあなたがたのただ中にあると言うのは、そういう事態を指し示しているのではないか。」(~高柳富夫牧師「農村伝道神学校学報」第165号に掲載の「神とは何か」)

この高柳氏の考えは詭弁のようにも思われます。「絶対」と「他者」とは論理的に結びつかないというわけです。しかし、だからと言ってなぜ「神」が「自己」の中のはたらきだということになるのでしょうか?飛躍としか言えません。対を絶するということは比べものが無いということであり、対象化できないということ…「空」とでも言うしかないってことなんです。

量義治氏の『宗教哲学入門』(講談社学術文庫)では「絶対者」は認めるが三様に分け、「仏教の空は無的絶対者である。それに対して、アッラーは有的絶対者である。キリスト教の三位一体の神は単なる有的絶対者ではないであろう。」(p29)ということで、じゃあなんなの?と言えば、「絶対有にして絶対無」(p232他)とのこと。その根拠として挙げられているのが「ペリコレーシス」(相互相入説)です。これが三一神論では大いにクセモノです。

量氏は、「仏教においては絶対者は空なのである。絶対無と言ってもよい。(中略)仏教における絶対者は無規定的な絶対者、すなわち無的絶対者である。」(p190)と述べ、さらに「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(p292、293)と述べています。理屈としてはいかにもバランスがとれていそうですが、信仰を生きる実際の体験的事実に照らせばやはり観念的であることは否めません。量氏の思想には滝沢氏の言うところの「神と人との不可分・不可同・不可逆」における「不可逆」が弱いので、「絶対有にして絶対無なる神は超越神であると同時に内在神でもある」(p292)と言う場合に、「超越」が「内在」に先行しなければ聖書的ではないのに、その「不可逆」を言えないわけです。但し、直観レベルでは傾聴に値するところは多大です。

「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。救済は全人類および全宇宙の救済でなければならない。そして、それは新天新地の到来以外のものではありえないであろう。」(p236)                                        そもそも量氏の神観ってどんなんだろう…と思って見てみますと、引用が前後して恐縮ですが次のように書いてありました。                                        「神は人間の外に存在する絶対的実在なのである。しかも自我としての人間に対して立つ絶対的他者である。言い換えれば、自我を超越するものとして、けっして自我の内に吸収され解消されることのできないものである。自我はこのような実在的絶対的他者と人格的に関わるのである。宗教は自我としての人間の実在的絶対的他者としての神との人格的関係である。」(p108~109)

私見では、「自我の内に吸収され解消される」といった神観は、日本人にありがちだと思われます。遠藤周作氏などもその一人でしょう。

量氏の前掲書の文言の引用に戻ります。

「宗教が人間の絶対者関係であるということは、この関係をとおして人間が救済されるということである。絶対者関係は救済のための絶対者関係である。救済の必要性がなければ、絶対者関係の必要性もない。宗教の起源と目標は実に救済にあるのである。そして、救済は絶対者による救済である。」(p191)と述べて、救済と絶対者とが不可分であることを強調おられます。そしてさらに、「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」と指摘しておられますが( p292~293)、この点、量氏は神論においては西田幾多郎氏はもちろん西谷啓治氏やその影響を受けた小田垣雅也氏など「有」より「無」に偏向した立場を超えていると思います。但し神学的には、三位一体論を「絶対有即絶対無」と解してクリアーできるかどうかは疑問です(p231~235参照)。

ところで、前記の高柳氏の考えは八木誠一氏や小田垣雅也氏の思想の影響を感じさせられます。小田垣氏は、「元来、他者とは自分の認識の届かない先にあるからこそ他者である。それはその他者の存在を信じるとか、信じないという、自分の内部での状況を超えたものだからこそ他者の名に値しよう。元来、自分が他者として認識したものは、すでに他者ではない。自分が認識した他者なるものは他者ではなくて、他者として自分が認識したもの、言い換えれば自分の一部である。だから絶対他者なる神の存在を自分が信じると言う場合、その神は他者ではなくて、自分の一部なのである。そしてそれは必ずその背後に、その認識の成立与件として、神の存在を信じないという自分を随伴している。わたしたちは『絶対他者なる神を信じる』などと、軽々しく言わないほうがよい。それは自家撞着した言葉なのである。自分が信じうるものは他者ではないのだから。」(~『現代のキリスト教』)と述べていますが、これに対しては野呂芳男氏と量義治氏の以下の言葉が好適な批判となり得るでしょう。

< 小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、「我-汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観-客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観-客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観-客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観-客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(~野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)

前記のように、高柳氏の場合は次の引用文にみられるとおり、「唯一」が存在論的な意味ではなく関係論的意味だとするのと同様、先行する関心が常に民主的価値観であるから、「絶対」が「他者」と結びつかず、人間が絶対化される愚に陥っている。

「神が唯一であるとは、神の存在が唯一であるというのではなく、神との関係が唯一であると言っているのではないか。神の存在が唯一であるというような、存在論的な唯一神信仰が持つ排他性や、それゆえの多神教や自然宗教への暴力性を、考え直して見なくて良いのだろうか。」と語る人もいます(~高柳富夫牧師前掲文)

私は世界平和に関しては、宗教多元主義の類とは異なる思想的立場に注目します。なぜなら私は、真の意味において「絶対」なる「神」は「創造的空」とでも呼ぶしかしようのない非対象というか超「対象ー非対象」の何かであり、それは自己限定において世界の現実に非戦平和を求める人間を然らしめて、矛盾した言い方ではありますがその理想型として具現していると思うからです。そこで、けっして宗教多元主義的立場ではなく、そんな単純な発想ではない宗教的実存の実例として、いわゆるバルティアンの関田寛雄という牧師の意見を引用しておきたいと思います。

「それぞれの文化・民族においてさまざまな宗教があるわけですが、一番の問題は自分の宗教をドグマティックに絶対化している。これが宗教の破綻であろうと思います。人類が新しい統合のシンボルを求めていくとすれば、まず原理主義から脱却しなければならない。キリスト教の原理主義も、イスラムの原理主義も悪魔化しています。およそ宗教というものが成熟していくならば、自分自身の特殊な信仰対象に真実に従うということを一貫しながら同時に他の宗教形態に対する寛容性をもつはずです。それは決して他の宗教に対する妥協ではありません。むしろ自分自身が信じている宗教の普遍性に目覚めればこそ、他の宗教に対して開かれていくという、そこにヤハウエという神の持つ非常に大きな意味があるのだと思います。わたしたちはイエスキリストに対する信仰を毫もゆるがせにすることはできません。しかし同時に本当にまじめに人権と、平和と、共に生きる社会を求めている諸宗教に対して、心を開き協力の手をさし伸ばすこと、そして自分自身の信じる信仰の一貫性を貫くと同時に他の宗教に寛容であること、それが自分自身の信仰の徹底のゆえにうまれてくる普遍性だと思います。そういうものを持たせてくれるのが、実は『ヤハウエ』というシンボルで言われていることではないか。」聖書研究 – 全国キリスト教学校人権教育研究協議会

要するに、特殊に徹底することにおいて普遍的真理に到達する…といった弁証法的思想です。これも観念的思弁と言えば言えなくもないわけで、上記の動画の中で『宗教問題』編集長の小川寛大氏が指摘しておられるとおり、関田牧師が所属しておられた日本基督教団などの日本のキリスト教は「どっぷり戦後民主主義」であり、じつに日基教団がいちいち出している「声明」などを見ると、それでも宗教団体かと言いたくなるほど政治的関心が強すぎるわけです。その一方で霊魂救済への関心が弱いのではないかと疑いたくもなります。特にバルト神学の影響もあって、イエス・キリスト中心主義が度過ぎていて、青野太潮氏がパウロ神学を取り上げて指摘しておられる神中心主義的思想が後退しています。

「『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの『神の支配の現実』である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)

また『キリスト論的称号』を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる『キリスト中心主義』(christ-centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、『キリスト中心主義』がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。」(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕p255~256)

「神学と呼ばれる世界の言葉の遊戯は『イエス・キリストのみが――全知なる神である』となって『父なる神』を見失ってしまっております。これは大変なことだと思います。」(小田切信男著『キリスト論・ドイツの旅』p263)

私見では遠藤周作氏の弱者イエスの宗教ほど不気味で無用な宗教はありません。そのような宗教こそアヘンとでも何とでも言って敬遠されて然りかと存じます。下記の動画で言われている「神の存在を信じていると、自分の行動を律するようになり、結果的に、他者からの評価が高くなる」…「神という見えない存在を意識した場合、まるで、自分が悪い事をしていないか、大きな存在に監視されているかのような錯覚を覚え、悪事を働く可能性が低くなる。」…「聖書などでは、我慢や自制、謙虚さなどを良いものとしている点も重要」…「これらは、他人の評価を上げるために必要なもの」…「そのため聖書の教えなどが長期間にわたって残り続けているのは、その内容が美徳だから語り継がれてきたわけではなく、自らの地位を守るために必要な、実用的な教えだったからと考える科学者もいる。つまり、信仰心を持っている人ほど、自らの行動を律するようになり、悪評が立つリスクが低くなると言える。これにより、結果的に仲間内での地位が高くなり、子孫を残せる確率が高くなった」といった単純極まりなき、信仰効果論もあるわけですが、すくなくとも「神について考えることは、自分が誰かに見られているという意識を高めるから、模範的な行動をとるようになる」なぜ人は神を信じるのか?【ゆっくり解説】 (youtube.com)

などということは頭の中での話であって、現実には必ずしもそうはなりません。「実用的」というなら、聖書から信仰の倫理・道徳的な面だけを抜き抱してきてもダメです。聖書の信仰については全体的にとらえなきゃ…。なぜなら、聖書における信仰主体は生身の人間なのだから、他にも性的なことや内面的なことなどいろんな悩み苦しみを抱えており、それによって信仰的行動が阻害されるということも往々にしてあり得るからです。例えば、職場の人間関係にストレスの苦悩を抱えている者が、神信仰を持っているとしても、その信仰によって本人がとるべき行為は、倫理・道徳的に模範的な行動である前に、その行動のエネルギーを促進するための心の状態を、より軽くして能動的にすることです。自分の場合であれば、自分が囚われている悩みから自分を解放するための神学的な認知行動療法です。それって要するに、絶対神信仰にもとづく苦悩主体である自我の相対化ないしはケノーシス(無化)にほかなりません。

「己を空しうし」(ピリピ2:7)に由来するイエスの生き様です。これは自尊心を棄てるということではなく、人間に先天的に備わっている自尊心は保持しつつも、信仰によって承認欲求を制限して用いてゆくということでせう。日本では稀有の女性宗教哲学者として知られる花岡(別名:川村)永子先生の言葉も引用致します。

「一コリ一五・二五―二八やヨハ五・三〇には、仲保者キリストもまた神に従うことが述べられ、神がすべてにおいてすべてになられると書かれている。つまり、仲介者キリストが信仰上絶対的な条件として人間に示されてはいないのである。事実、聖書には、神やその子キリストを否定することは許されても、聖霊を拒むことは許されないと語られている。フィリ二、七には、神の自己空化(kenosis)について述べられている。このように、仲保者キリストは信仰に対する絶対条件ではない。しかも、絶対の人格としての神が自らを空しくして、神と本質において等しい神の子として有限のこの世界に受肉し、磔刑に処せられた後、復活したということは、キリスト教の神の絶対的な人格性が、自らの立場を絶対的に否定して、人間たちに愛 アガペー や慈悲で再生させる力を備えた人格性であることを示している。この事実には、キリスト教の神が、絶対有から成り立っているのみならず、同時に絶対無からも成り立っていることが示されている。」(「発題Ⅰ キリスト教と仏教における『絶対の無限の開け』」~『東西宗教研究』vol.5 2006 )

だから、個人と社会(共同体)とは区別はできるが対立的に論じることは無意味です。なぜならすくなくとも宗教的には、社会的(共同体的)な平和は、諸個人の内面的な平和(平安)抜きにしてはあり得ないからです。ところが宗教団体が政治に首を突っ込んで論じている時の意識では、個人と社会とが対立的構図に陥っているわけ。愚かなり、愚かなりです。

「絶対者は単に絶対有であるという伝統的キリスト教的神観が誤りであるように、絶対者は単に絶対無であるという仏教的絶対者観も誤りである、と言わなければならない。(中略)絶対者は単なる絶対有ではないように、単なる絶対無でもない。絶対無には超越性、他者性、人格性が欠如している。このことは具体的には無律法性と無責任性となって現れてくる。」(量義治氏前掲書 p292~293)

絶対有と絶対無との対立をも超えた「神」は「空」…否、単なる「空」ではなく「創造的空」としか呼びようもない。人格ー非人格を超えているだけではなく、意味ー無意味を超えているがゆえに、キリスト教神論の如く、川島隆一牧師の言われる「同情的イエス」の如き偽善的な左翼センチメンタリストたちの私的イエス像に蹂躙された偽神学によって浸食されるおそれもない。

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