0 朝憬への詩 第一章 1話 みんなに公開
その夜は星空が一面に広がっていた。暗闇の中、ルクスカーデン十三番街、北西の住宅地を照らすのは、上空に浮かぶ星々の煌めきと、〝灯りの揮石〟と呼ばれる立体のひし形をした魔法の石がポツリポツリと光る灯り———その街路灯のみである。時間は皆寝静まった深夜、しかしとある石造りの家の二階、その一室の木戸が静かに開く。その奥から赤毛のショートボブを揺らした少女が暗がりを抜けてきた。白いネグリジェ姿、一歩一歩忍び足で向かった先は、彼女———心羽の部屋と、心羽の父である明(あきら)の書斎の中間。そこからは天井に向けて梯子が伸び、設けられた大きな天窓から、丁度月が雲の合間に見え隠れしていた。心羽が右手に持ったランプの中の灯りの揮石を振ると、その周囲が淡く光るも、少々灯りが大きすぎる。灯りをなるべく小さくするようイメージしながら、ランプ内の揮石を再度振ると、やがて灯りが小さくなった。心羽はランプの取っ手を手首に通し、天窓を目指して梯子を上り始める。少女の軽い身体とはいえ、彼女の体重を乗せた木製の梯子は、小さい音乍らもギシギシと軋む。母の寝ている一階にまでその音が響こうものなら、この秘密の行為は咎められてしまうかもしれない。心羽は息をひそめ、一段ずつ静かに梯子を上る。やがて六段目に脚がかかると、左手を伸ばして天窓の鍵を開け、押し上げるように天窓を開けた。
瞬間、静かな夜風を肌に感じながら上空を見上げると、心羽の眼に星々の光が映る。心羽はその光に引き付けられるように、天窓から身を乗り出して屋上に出た。今この時期、この場所は、夜空に瞬く星がよく見える。この深い静寂の空気と、はるか遠くの何千、何万光年からの光の偉大さ。心羽はその意味を知るより昔、幼いころからその世界に魅せられていた。夜の風の心地よさがその身を包む中で、彼女は屋上に座ると、ふと自分の思いを小声で呟く。
「ねえ、なんだか眠れないの」
少し細めたその赤い瞳は、星を映しつつも陰りも内包していた。誰にというわけでもないが、安心を求めるように、彼女は言葉を紡ぐ。
「これからのことを考えてると、何もしないままでいいのか不安になって…私は何になれる?どんなことができる?」
自身の可能性と、無謀さに不安定になるその思いに、夜空は何も告げることはない。
「…空に聞いたって駄目だよね」
これまで何度か問いかけてみて、これで何度目の沈黙だろうか…当たり前のことではあるのはわかっている。ただそれは、心羽が自分の自然な思いに気づき、その心で現実と向き合っていくために、必要なことだった。
それから少し経ったときのことである。東の空に赤みが射しはじめた。今日が終わり、明日を始まろうとしている。眠気に目を伏せかけていた心羽が、朝焼けに染まりゆく天を仰ぎ見る。夜明けに陽と闇が交錯するこの時間。明日に向け天が青空を準備するこの時間。心羽はこの時間が好きだった。まだ冷たい夜の風に吹かれながら、空のグラデーションに見つめていたその時、上空が突然光り始める。やがてその閃光の中から、流星を思わせる幾つもの小さな光の奔流が、このルクスカーデンの地に降り注いだ。綺麗…こんなの見たことない。この世界にこんな光があるなんて…心羽の感想の第一はそんな思いだった。不可思議な光景ではあったが恐怖はなく、その虹を思わせる七色の光は、心羽の心に温みを与えた。その時、彼女の赤い瞳には陰りはなく、その紅は力を宿して煌めく。どこか懐かしく、心の中の何かが満たされ、包まれているような優しさ…彼女は思う。〝この光をすべての人に見せたい〟と———その無垢な願いに呼応するかのように、北の空に小さく映っていたはずの七色の星の一つが徐々にその大きさを増していく。近づいて…こっちに来てる…!流星が自身の下に迫りくる危機感に、心羽は一瞬後ずさるが、やがてこちらに近づくにつれて、その星は徐々に減速し、手に収まるほど小さくなっていくのが分かった。単なる流れ星、即ち隕石の類ではない。何より…嬉しいと思った。遠目に見ることしかなかった星の光が、温みある七色を携えて、眼前にその美しさを宝石のように輝かせている。そのことに無邪気に興奮している自分がいた。その思いのままに右手を伸ばす。それまで何度も伸ばしては虚空を掴むのみに留まっていたその手は、確かに七色の星を掴んだ。そうして輝きを手にした右手を、左手とともに自らの胸に祈るように抱き寄せる。すると指の間から星と同じ輝きがあふれ出し、心羽を優しく包みこむ。
祈るように閉じていた目を開けると、掴んだ星をもう一度見ると、星は宝石を宿したペンダントに姿を変えていた。揮石よりも大きく丸い形状のそれは、磨かれた青い宝石の中に、星と同じ七色の輝きを有し、その周囲を結ぶ銀の装飾はシンプルなものながら、艶のあるものだ。そこまで確認した瞬間、心羽の脳裏に覚えのない映像が過った。しかしそれは靄がかかったようにはっきりとは見えない。これは…なに?…走馬灯?
「その力は…」「きっとまた逢えるから…」「…じゃあどうすればいいの?」
映像と共に様々な人の声が聞こえる。湖畔に浮かぶ都、男の声、祈り、苦悶の響き…どうなってるの!?
「んなもん知るかよ!」「もっとよく考えて」「ずっと信じてたのに」
朝焼けの雲と赤い光、激情の叫びと諭すような冷静、そして失望の嘆き
「好きにしろ」「ここは俺に任せて!」「…何もかも失った」
積雷雲と雨の降る荒野、厳しさを孕んだ思い、強い意志、悲哀の心
頭の中がぐちゃぐちゃになって、心羽は思わず目をぎゅっとつぶる。
脳裏に未だ浮かぶのは一面の焼け野原。
「それでも行こう」
それは誰かの願い…その炎の向こう。目を開けた心羽の先に見えたものは…
「私たちは———」
東の空から昇った朝焼けの陽により、雲の切れ間から光に照らされるルクスカーデン王国の街並み。種々の住宅、魔法公共事業による施設の数々や、様々な事業の店舗など、石材や木工を用いた大小様々の建造物が立ち並ぶ。石畳が敷かれた道路の端には木々が生い茂り、その葉は深緑に色づいている。古代都市の神秘性をそのままに、森や川といった自然と、古い城と街が調和したこの風景。それが朝焼けに染まれば、この国の有する35本の大通りに点在している、大きな鐘塔の鐘つきが、鐘を揺らしてその音を鳴らす。ルクスカーデンの人々が〝一の鐘〟と呼ぶ、その一日の始まりを告げる鐘だ。そうして朝日が、窓際のカーテンから木漏れ日のように射す中、心羽は自分の部屋のベッドに身を横たえていた。意識はまだ少し微睡んでいるが、やがてその赤い髪が揺れ、丸みを帯びた目が開く。どこかに別の場所にあった意識が、今自覚しているここは…ベッドの上。見上げた先は見慣れた自室の天井。…ああ、夢を見たんだ。漠然とした高揚感と混濁した何かがあった気はするが…内容ははっきり思い出せない。まあ、夢なんてそんなもんだよね…覚醒していくにつれてそう解釈し、心羽は一人落胆と共に息をつく。それから少しして、自宅の一階にあるリビングに向かうために身を起こそうとした次の瞬間、ふと首元に違和感を覚える。何か、首にかかっている。それに手を取り、眼前に持って見てみる。それはペンダントだった。艶のある銀の装飾と、磨かれた青い宝石の中に、七色の輝き。カーテンの木漏れ日に反射するその輝きに引き寄せられ、心羽の冷めかけていた達観に、高揚の熱がほんの少しだが宿った。彼女はふと、微笑みに口元を緩ませる。その思いを以て今度こそ身を起こした心羽は、自室の戸を開け、一階のリビングへと降りていった。
「ああ心羽、おはよう」
リビングに降りた心羽に、母の詩乃(しの)が朝の挨拶をする。詩乃も丁度今起きた様子で、ネグリジェ姿でテーブルの椅子に座り、寝起きの少しとろんとした目を手でこすっていた。
「おはよう、お母さん。明かりつけるね」
挨拶を返した心羽は、欠伸しながら頷いた詩乃の様子を受け、まだ少し暗いリビングの天井に設けてある照明の揮石を点けるため、揮石に結び付けられて垂れ下がっている紐を揺する。すると揮石を中心にリビング全体に明かりが灯った。母娘二人は照明による眩しさに目を細める。やがて眩しさに目が慣れると、詩乃は首元まである黒髪を整えながら心羽に話しかけた。
「心羽、眠れた?」
「うん、まあね」
詩乃の言葉かけに、心羽も欠伸交じりに返事する。その声はどこか間の抜けたものだった。心羽自身もそれは自覚しているが、ペンダントの存在と、それによる高揚感が脳内を占めており、それ以外のことがぼんやりとしたものに感じられた。
「寝癖ついてるよ。ほら、鏡」
母の気付きによってそのぼんやりした感覚が、一瞬現実へと引き戻される。見るとそこには、赤い髪がくしゃくしゃになった自分の顔。寝起きのぼんやりした目を鏡に寄せる様は、にらめっこのように詩乃の柔和な目には映った。
「うわっ、ホントだ…」
「はいこれ」
その一言と共に詩乃から渡されたのは〝寝癖直しの揮石〟。「ありがと!」と心羽がそれを受け取り、自分のお気に入りである、前髪が少し額にかかったショートボブをイメージしながら揮石を振れば、そこから虹色の星屑のような光が飛び出し、彼女の赤い髪をなぞれば、髪はその根元から毛先まで、踊るように独りでにかき上げられた。次第に髪が梳かれて纏まっていくと、夜の間に損なわれた滑らかさを取り戻す。そうして髪の動きが落ち着いたのを見計らい、心羽は再度鏡を見る。そこにはイメージ通りに前髪が額に掛かり、首元までふんわりとした後ろ髪が伸びた自分の顔があった。それを確認したのと同時に、手元にあった揮石がそこから消えてしまったのを感じると、「あっ、なくなっちゃった」という言葉が口をついて出る。
「あと二回分はあったはずだけど…」
詩乃の指摘に心羽は「えっ」と不意を突かれた。あーあ、このパターンか…
「寝癖ひどかったから二回分使っちゃったのかも。今日買ってくるよ」
時々寝癖に困る心羽が、気が付いたら寝癖直しの揮石を二回分使ってしまうことは、詩乃も承知していたことだった。詩乃としては後で自分もこの揮石を使おうと思っていたが、まあ、手櫛で何とかならないこともない。
「仕方ないわ…じゃあお願いね」
「うん、ごめんね」
心羽は苦笑しながらそう伝えると、台所の調味料棚から〝朝食の揮石〟の瓶を取って、詩乃に再度声を掛ける。
「…お母さん、これ使っても大丈夫?」
「もうあんまり回数ないけど、いいよ」
詩乃からの承認の言葉を受け、「はーい!」と返事を返すと、心羽は台所まで歩いていき、食器棚から大小二つの皿、ナイフとフォークを取りだす。それから調味料棚に置いてある〝朝食の揮石〟の瓶を取り、食器類と一緒にテーブルへと運ぶと、瓶から揮石を一つ手に取って、いつもの朝食としてトースト、ベーコンエッグ、芽キャベツのサラダを想像しながら、心羽は手元で揮石を振った。すると小皿にはトーストが、大皿にはベーコンエッグと芽キャベツのサラダが、虹色の星屑の光を伴って現れた。
「いただきます」
「はーい」
テーブルの椅子に座った心羽は、食べ始めの礼の言葉を告げると、ベーコンエッグをナイフとフォークで切り分けて口には運び、少し咀嚼した後、トーストを一口大にちぎってそこに加える。ベーコンエッグのふんわりした卵の旨味と、ベーコンエッグの塩気、トーストの香ばしさで口を満たした後、続いてサラダを一口。オーロラソースの酸味とサラダのちょっとした苦みとのアクセントを挟んで、その都度の味の変化を楽しむ。そんな心羽の様子に詩乃が言った。
「心羽が食べてるの、美味しそう」
「美味しいのは大事」
その様子を眺める詩乃からかけられる、のんびりとした言葉に、一通りの咀嚼を終えた心羽が微笑み交じりにそう応えて食事を続ける。心なしか上機嫌に見える。だが単に食べ慣れた食事が美味しいだけでここまで楽しそうというのも…そう考えた詩乃は、心羽にそれとなく聞いてみる。
「何かいいことあったの?」
「うん、今日はアレグロだからね」
心羽が8歳から在籍している地域の音楽団———アレグロ楽団は、ルクスカーデン689番通りにて15年前に結成されたオーケストラの音楽団で、楽団員は現在19名。昨今は人数こそ伸び悩んでいるが、一人ひとりの演奏のレベルが高く、よく季節のイベントなどに招待がかかる。アレグロでの演奏は心羽の心を振るわせるもので、このところの日常に少しナイーブになってしまいがちな彼女にとって、自身の思いを音楽という表現で満たせる楽しみがあった。ただ、先ほどのペンダントのことは、何故か話すことを躊躇われて伏せてしまう。夢とペンダントのことは自分でもまだ驚いていて、皆にあの光を見せたい思いと、自分だけの秘密にしたい大切な思いとが同居して、落ち着いて話ができる自信がない。だから、心羽は微笑を湛えてこう続ける。
「今日は私、演奏走り気味になるかも」
朝食の後、鐘塔の鐘が再度その音をルクスカーデン十三番街に響かせる。街の人々の多くは、この〝二の鐘〟を基準に日中の活動を開始する。心羽達の家も例外ではなく、それぞれ身支度を終えて、詩乃はエプロン姿で朝の家事としての食器洗いと洗濯を始めた。心羽は白いブラウスとベージュのミニスカートに、黒いタイツとショートブーツの姿。トランペットの入ったケースを持ち、次の講演に向けた練習を行うため、自宅を出て689番通りにあるアレグロ楽団の集会所に向かう。その胸には、先のペンダントをかけて。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
出掛けに詩乃と言葉を交わして、心羽が家の玄関の戸を開けると、朝日に映える石造りの家の数々と、自分と同様そこから出てきた人々が、石畳の路の上を行き交う光景。さあ一日が始まった。心羽は一つ息をついて、人々がそれぞれ道を行きかうのに交じって歩き始める。
自宅から左、二ブロック先に位置する住宅街の小道を横切って、大通りに入った心羽の眼に、やがて入ってくるのは露店で揮石を売る商人や、移動販売の軽食屋が商品や店の仕込みをする光景。街の喫茶店では道行く人が足を止め、朝刊を読みながらコーヒーを啜る。他にもそれぞれの仕事場に向かう人々。その中には、この街の景観を作りだしている人がいるだろう。生活必需品から日用品、嗜好品や娯楽の品を生み出している人もいるだろう。それ以外にも流通や金融、教育や医療など、あらゆる場を担う人が自身の職に対する誇りや、葛藤や不安を抱きながら、この石畳の敷かれた道路の上を行き交っているのだろう。それが段々と想像できる年齢になって、心羽がまず最初に感じた思いは、どこか物憂げな思いと、不安だった。まだ小さなころは、多様な人々の共生を感じさせるこの街並みの優しさと、その穏やかさ、この景色の美しさに魅せられていた。だがやがて成長し、変わっていく自分は、果たしていつまでその中にいられるのだろうか。この街を形作っている人たちの中に、自分は参加できるのだろうか。いつごろからか、時々そう考えるようになっていた。それを思い歩みを進めると、人々の中から、特に自分と同じ年くらいの若者たちに自然と視線がいく。全員がそうではないかもしれないが、一見、楽し気に自己実現に向かっているように見える彼らを見ると、自分が彼らから、そしてこの街から取り残されるような気がした。自分はこの景色の中に、真に属せなくなりつつある———そんな言いようのない感情から気持ちを切り替えようと少し頭を振ると、首から胸に掛かっていたペンダントに意識がいく。それを祈るように右手で握り、目を閉じて、あの星の輝きを思い返す。そうすれば、自分の中のずれたような感情とそのための不安が、少しだけ収まって安心できる。そんな気がした。そうして我に返ったころには、彼女の歩みはアレグロの集会所がある689番通りに差し掛かっていた。
689番通りの中央は、種々の小売店が寄り集まってできた商業施設によって活気に満ち、人の流れが激しい。ただ、自然と調和した景観としての街路樹や、所々にある小川やそれを跨ぐ小さな橋、そして街を彩る石畳の路は、ここでも共通している。そんな中央通りから東に二百メートルほど進んだところに、赤レンガの壁と傾斜のある片流れの黒い屋根でモダンに彩られた、地域の人間が利用している集会所があった。アレグロ楽団はそこの二階を二、三日に一回間借りしている。利用時間は鐘塔が朝の終わりに鳴らす〝三の鐘〟の時間から、夕暮れ時に鳴らす〝六の鐘〟までの間である。そうして提供された空間から、演奏の練習をする種々の楽器の旋律が響く。心羽はその響きあう音の中でトランペットを吹いていた。
「うん、それぞれのパートも良くなってる。それと、中盤にもう少し、荘厳さを表現したいんだ。」
一しきり演奏を終えた後、黒く丈の長いニットコートを着流した指揮者が言った。楽団の長である広夢(ひろむ)である。その言葉に「はい」と楽団員たちが返事をする。
「だから、中盤からは音を大きく盛り上げて演出できればと思います。みんなの音は凄くいいから、僕の指揮の課題でもある」
広夢も自らの課題を認め、言葉を発する。この口下手な楽団長は、話し方こそつぶやくようなそれであったが、その言葉の端々から、そこはかとなく誠実さが垣間見える。そんな団長の姿勢を、楽団員たちは慕っていた。心羽もその一人である。
「焦らないで行きましょうよ、ヒロさん」
楽団員の一人が言った。「そうだよ」数人がそれに続く。それに少し笑んで広夢も応える。
「そうだね、僕らの音は一つずつ練習してできるものだし」
心羽はこうした一人ひとりの姿勢が、音楽を楽しみつつもより良いものを目指すアレグロを形成している大きな魅力と感じていた。そんな思いを想起した故か、そんな自分と同様に、広夢に憧憬の眼差しを向ける同年代の少女のいる左斜め前を、心羽はふと目で追う。やがてその視線に気づいた様子の少女———遥香(はるか) はその手に持つアルトサックスを少し傾けて、そのパステルパープルの髪を揺らし、同じ色の瞳をこちらに少し向ける。トランペットの位置の心羽と目が合い、互いに少しはにかんだ、柔和な笑みを浮かべた。
「じゃあ、もう一回いこうか」
広夢のその声を受けて、楽団員全員が各々の楽器を構え直す。心羽と遥香も慌てて広夢のいる正面に向き直した。この楽団には、一人ひとりの懸命さと柔軟さがある。それが他の団員と相互作用し、メリハリとなって機能している。心羽と遥香の二人は、そんなアレグロの雰囲気が好きだった。
昼食時の前後を告げる昼下がりの〝五の鐘〟の音が響く時間。楽団の演奏の練習が一段落ついたところで、楽団員はそれぞれ休憩として思い思いの時間を過ごす。心羽はそのタイミングで、遥香と共に集会所近くの喫茶店〝カフェ・すてら〟を訪れた。アレグロ楽団の練習があった日には、心羽は遥香と毎度ここに来る。店を見つけたのは二年ほど前のこと、店内は天井の丸いペンダントライトが、屋内の少し陰った雰囲気に映え、木造の机や椅子の与える印象はレトロでありながらどこか落ち着いた味わいを演出している。出てくる軽食の味も店主が工夫を凝らしたものであり、好評だった。当時まだ十二という年齢のためコーヒーを知らなかった心羽と遥香であったが、この店に惹かれたのはこうした魅力を偶然にも発見したためである。そんな「すてら」店内の奥、窓際の席に座り、昼食としてサンドイッチを食し、カフェモカを飲んでいた。そのセット価格は三十ダイヤ。十ダイヤの銀貨三枚で支払えるその手ごろな価格としてのそれは、サンドイッチはパンやハム、レタスこそ目立った印象はないが、味付けとしてのソースが独特の酸味と旨味を付与し、その素材の味も引き立たせる。そしてカフェモカは、一口啜れば甘さと暖かさと香しさが鼻腔と口を潤し、後味もすっきりしている。その両方を嗜みながら、その陽の自分たちの演奏を振り返るとともに、「広夢さん、素敵だよね。頑張ってる」だとか「最近どうしてる?」などと他愛のない話をする。それが彼女たちの日常における楽しみの一つだった。
「最近さ…どうしよっかなって思うことがあって」
その話題は心羽がふと言ったそんな一言から始まった。
「ん~、なになに?」
遥香は少し間の抜けた返事をしながらも、首を傾けその言葉と心羽に関心を向ける。
「将来のこと。まだ働くあてもないし、親に〝政治家は継ぐな〟って言われちゃって」
心羽の父の明は、ルクスカーデンの行政を担う公人達のリーダーで、仕事に忙殺されてどうしても家を空けがちである。そのため家族との時間こそ取れなかったが、心羽を常に思い、父としての言葉をなるべく娘にかけるようにしている。もちろん娘には一般的な教育を受けさせ、本人のペースを尊重した。そんな父としては、娘に二世政治家にはあまりなって欲しくない様子で、それを心羽もどこか感じていたし、それこそ自分が政治家になるイメージは、やはり本人にはあまりなかった。そして心羽本人としては、自分が何者になるのか、未だ判然とはしていない。
「そっかぁ、こっちゃんはやりたいこととかないの?」
その問いに、心羽は残り半分になったカフェモカをスプーンでかき混ぜながら、少しだけ目を伏せて話す。
「なんか、自分が何かを頑張っているイメージが、漠然としてるんだよね。でも、何か頑張ってみたい、やってみたいって思ってる」
そこまで言って一息つくと、手ごろな言葉を見つけて心羽が続ける。
「やりたいことがないわけじゃないんだけど…それが何かって答えられない。そんな感じ」
その言葉に遥香は「ああ」と感嘆の語を発するも、気が付けば少し間が空いた。やがてそれを埋めるように遥香はコーヒーを一口啜ると、慎重に口を開いた。
「簡単に〝わかる〟…なんて言えないけどさ、そんなもんだよきっと。私だってちゃんと司祭になるのは二十歳からだし、焦ることないって」
「…うん」
どこか釈然としていない様子の心羽に、どうしたものかと考えて、遥香は少しだけ、自分の話をする。
「私もまだ迷ってるよ。ほら、私って信仰心ないからさ」
「そうなの?」
遥香の家は教会の司祭を務める父と、修道女の母と彼女自身との三人暮らし。遥香から見て年の離れた兄が一人いて、この教会を引き継ぐことになっていたが、結婚を理由に家を離れてしまった。それを受けた両親から教会を引き継ぐことを、遥香は強く勧められている。だが実際のところ、先の言葉通り彼女には信仰心がない。見聞きできないものを、信じようがないという思いのまま、教会の手伝いをしている彼女としては、葛藤があるのは必然だった。
「そんなのが司祭やっていいのかなって…まあ、やりがいはあるんだけどね」
苦笑交じりにそう言った遥香だが、知的好奇心が旺盛で、それを活かせる道に行きたい思いもある。長年の付き合いで、心羽は何となしにそれを察していた。しかし、彼女の将来に口を出せる自信もなく、そもそもこの話を持ちかけたのは自分である以上、それを強く言うわけにもいかない。
「そう、なのかなあ…」
それぞれが自分に不安や葛藤を抱え、自分が見えなくなることもある。それが、所謂思春期という言葉で表されたり、大人になればそういう言葉で片づけないわけにはいかなくなるのだろうが、今現在この〝自分と世界とのもどかしさ〟を最大限まで担わされているこの十四、五の娘たちからしたら、溜まったものではない。
「そっか…」
まだその未成熟なアイデンティティ故に、心羽も遥香もその答えを求めている真っ只中である。互いの答えもヒントも、そう簡単に提供できるわけでもなく、また自分なりの答えというものは、それを求めがちな自分と世界の中から見出していかざるを得ない以上、ここではカフェモカを啜るのみである。
「…あ、そういえばアレグロは?」
唐突な遥香からの問いに、心羽の口からは咄嗟に「ん?」としか出てこなかったが、遥香は少し身を乗り出して言葉を続ける。
「続けるよね?」
その問いとともに心羽の顔を覗く遥香に、心羽は苦笑交じりに言った。
「もちろんそれは続けるよ」
「ならいいじゃん!人生楽しんだもの勝ちだよ。こうしてこっちゃんと楽しく話せる私は勝ち組さ」
遥香の声音と言い方は、どこかあっけらかんとして聞こえたが、それはいい意味であっさりした考えだと心羽には捉えられた。確かに、依るべき場所が全くないよりはましな話である。案外このあっさりした感じ、自分と遥香とのこうした微細な周波数の違いは、心羽の若干張り詰めたようなもどかしさを、少しだけ緩めた。
「ふふっ、ありがとう。そうだね」
微笑を湛えてそう応える心羽に、頷いて返した遥香が「そういえばさ…」と切り出しながら言った。
「さっきから気になってたけど、こっちゃんのペンダント綺麗!」
心羽の首にかけられたペンダントに視線を向けて告げられたその言葉に、心羽は「ありがとう」と笑みながらお礼を言うと、今朝の胸の高揚感が思い出したようにまたやってくる。
「そうそう、朝起きたらこのペンダントを身に付けてたの。不思議な夢を見たんだ」
「えっ、どんな?」
心羽の話の切り替えし方に、遥香の知的好奇心が刺激されたのか、そのパステルブルーの目が真っ直ぐ心羽の方を向く。心羽は「えっとね…」と告げて、今朝の不可思議な夢とペンダントの現象を説明する言葉を一瞬探す。そうして口を開くと、彼女はこう言った。
「夜に、家で星を眺めてたらさ。空が光ったようになって、流れ星が見えたんだ。」
つい今朝のことだというのに、既に自分の中での大切な出来事になっているこの夢の話。それを親友とはいえ人と共有するというのは、心羽にとって少し勇気が必要なのと共に、どこか高揚感をもたらした。だからその言葉に「うんうん」と頷いて返す遥香の様子を確認しながら、心羽は話を続ける。
「七色に光るすごい綺麗な光でさ、皆に見せたいと思って…なんか掴もうとしてたんだよね」
一つずつ夢の内容を、併せて確認するように話を展開する心羽は、心なしか、その赤い瞳をキラキラさせて、楽しそうに遥香には映った。親友のその様に、遥香自身も半ば中てらたように反応する。
「こっちゃんのそういうとこって優しいよね、素敵な夢じゃん。それで…掴めたの?」
「それが掴めたの、まあ夢だから。そしたら…あんまりここから先は覚えてないんだけど。大切な…思い、なのかな。それが過ったような、そんな気がして…」
それは———その一つ一つは、誰の思いだったのか。夢でしかないはずだが、一口には言えない〝体感めいた何か〟が心羽の中にはあって、しかし夢である以上それを口に言葉として出力することはどうにも困難でもどかしい。それは確かにあったように思えたが、もうどんな言葉だったかも覚えていない。
「そのまま目が覚めちゃったんだけど、その時にこれを持ってたんだ」
そう続けると、心羽はペンダントを右手に乗せて少し遥香に近づけた。その青の中に輝く七色に、不思議と遥香も惹きつけられて視線を落とすと、その一筋射し込む光に思わず息を飲む。
「夢から出てきた光、かあ…なんかいいね」
「私もそう思ってるの」
心羽は楽し気に話を聞いて、理解を示してくれた遥香のリアクションに嬉しくなって、「なんかありがとう、はるちゃん」と続けながら、その思いのままに笑んだ。この夢の話は、遥香なら理解してくれることはわかっていたが、もしかしたら夢見がちで浮足立った自分の虚妄と思われるかもしれない。そんな思いが、全くなかったわけではなかったから。
「えっ、なに~こっちゃん、急にお礼なんて。夢見た光がペンダントとして出てきたなんて興味深いじゃん、ロマンもあるし」
「だよね!」
心羽のロマンチックな部分の思いと、遥香にある知的好奇心の部分、その思い。互いに少しだけ視点やとらえ方が異なるものの、それが面白いと感じる二人がいて、そうした相乗効果が互いに前に進む力になる。そんな繋がりが、この二人の間にはあった。
その時、警鐘のけたたましい音が突然鳴った。それは休憩の時間を終えようと、心羽と遥香が〝すてら〟の店内から外に出たのとほぼ同時だった。ゴンゴンと街中に響き渡るように鳴らされるその警鐘の音は、ルクスカーデンの地に伝わる影魔と呼ばれる異形の存在の襲来を伝えるためのもので、それを受けて辺りの人々に緊張が走る。
「〝影魔〟だ!こっちに向かってる!民間人は早く非難して!」
立番を始めとする鐘塔の守り人たちが、警鐘と併せて大声で影魔の進行経路上にある住民たちに避難を促した。この報せを受けた人々の反応は、「どうする?」「危ないんじゃない?」「魂を喰われるんだよな?」そう言った言葉とともに、その場から離れようとする人や屋内に避難しようと物陰に隠れたり走り出す人が殆どだった。一方で「影魔ってどういうんだよ?」「そんな大きい奴じゃないんでしょ?」などど、影魔の脅威を認識していないのだろうか、様子を見ようとする野次馬の姿も少なからず心羽には見えた。その一方で、実際自分たちもこの事態にどう対処したものか、心羽と遥香も一瞬戸惑う。
「こんな市街地に影魔がくることなんて、滅多にないよね」
不安げに遥香が言った。二人は周囲の人たちと同様に、戸惑いながらも走り出そうとする。
「どっちに逃げる?とりあえず集会所?」
頷いてから言った心羽の問いかけに、遥香は咄嗟に判断する。皆も一度集会所に戻ってくるかも、それにもしこのことに気づいてなかったら…
「うん、今はそっちに!」
二人は集会所に向けて走った。人々がそれぞれ困惑や避難、興味本位に行き交うその波に呑まれぬよう、その騒ぎの間を縫うようにして。人間の魂を喰らい、その心を欠落させるというこの影魔の脅威に対して、ルクスカーデンの人々は基本的に無力である。そのためルクスカーデン各市街の自治体や治安維持組織、国防を担う軍に於いて、住民区画への影魔の侵入に際しては速やかな連携を取り、住民の避難を最優先とした上で、これに対処することが取り決められている。
「ニーベルゲンや軍の人はまだ着かないの?」
遥香と共に人の波の中を走り続ける心羽は、同様に逃げながら異形生物災害対策組織、通称ニーベルゲンの対応の遅さに疑問を呈する女性の声を聞いた。確かに、ルクスカーデンは国境を警備する軍の兵士や、軍から分化した組織であるニーベルゲンの敷く防衛網によって、影魔から住民を守るよう、法令を定めている。しかし、騒ぎの中で心羽が見た限り、その対応は後手に回っている様子である。お願い、早く来て…そう祈りながら、走り続ける心羽だったが、その傍を走っていた遥香がとうとう人の波に呑まれそうになって転倒する。
「はるちゃん!」
心羽が何とか駆け寄って、遥香の身体を起こそうとその肩を掴む。
「立てる?」
「うん」
そう声を掛け合い、体勢を立て直そうとする二人に耳に、近くを通り過ぎた人の悲鳴が響く。
それに後ろを振り返った心羽と遥香の目に、まだ遠目ではあったが〝それ〟は確かに映った。この世に悪魔がいるとするならこんな風貌なのだろう。大きく開かれた口や眼光は、獲物を狙う獅子をどこか思わせる。体躯は2メートル近くあろうか、その全身は突起のような皮膚に覆われ、鋭い爪や尾は恐竜に近いものを想起させた。そんな異形が、確かに人を襲っているその光景は、二人を始めそこにいた人々の心を驚愕と恐怖に戦慄させる。
〝魂を喰らう〟とはこういうことか、影魔がその手を襲われた人に翳した途端、一瞬光のように見えた何かが人の中から離れ、影魔の手に吸い取られていく。そうして生気を失ったように彼らは膝から崩れ落ちていった。その一瞬は、緊迫感故か心羽の目に焼き付く。襲われた人が倒れ伏す様と、その向こうに浮かぶ——異形の怪物の姿。嫌悪感と恐怖に心羽の身はすくみ、瞳が震える。そして倒れ行く人々を背に逃げることしかできぬ状況に、何よりも強く思ったのは———〝あの人たちに、手を伸ばせない〟そんな無力感と悔恨だった。
「こっちゃん…こっちゃん!追いつかれる、早くこっち!」
迫りくるその思いに、一瞬遥香の声が耳に入らなかった心羽は、彼女に引きずられるように手を引かれた再度走る。二人はそのまま脇道の路地裏に身を隠し、息をひそめた。その壁をを背に、可能な限り音を立てぬよう息をつきながら、隣合う二人は互いにその手を握って目をギュッと強く閉じる。そうしてそこに迫る影魔をやり過ごそうと祈った。だが次の瞬間…
「…貴様、羽の使者か」
えっ…なんで、こっちに———羽の…使者———隠れていた路地裏の二人に真っ直ぐ来た様子の悪魔は、冷淡にそれだけ言い放つ。それだけで二人を恐怖にさせるには充分だった。遥香が心羽の手を引き、慌てて再び全力疾走する。そうして辺りのものを蹴散らし逃げる最中、心羽は思う。羽の使者っていったい———瞬間、なにかを思い出したようにハッとする。それは昨日の夢の記憶、その断片か。この左手には弓を握り、右手には炎の弓を携え、光の翼をはためかせて飛んだ記憶。それをこの身体が覚えている。でもそれって…いつの記憶?なんでこのタイミングで…パニックで気が変になってしまって幻覚でも見ているの?違う、これは…これは確かに自分のことだ。心羽には直感的に確信した。そしてそれは即ち———
「———私、戦える」
気が付けば闇雲に走った裏路地を抜けて、689番通りのメインストリートにたどり着いていた。警戒していた様子の人々は驚きに声を上げ、緊迫した様子で二人と影魔を見つめる。心羽は「ごめん、はるちゃん」と告げて脚を止めようとした。そのため遥香は不意に繋いでいた手が捻りそうになったのを感じ、その脚も一瞬もつれそうになった。
「こっちゃん⁉何してるの、早く逃げないと!」
しかし遥香はその手を離さず、心羽を見捨てまいと、より強く掴む。そんな遥香に心羽は、胸のペンダントを空の右手で彼女に向けて翳し、息せき切ったように急いで遥香に説明する。その間、影魔は獲物を狙う狩人のごとくその歩をじりじりと詰めてきた。
「昨日の夢、戦う力の夢だった!これで戦う…私にしかできないことなの!」
もう逃げられない。遥香を自身の背に庇うようにしながら、心羽は彼女に向けて胸元に置いた右手を、ギュッと結んだ。その手の動きは〝信じてるよ〟の合図。公演前の緊張してる時にも、気持ちが通じなくて喧嘩した時にも、その合図でふたりは励まされ、互いの心を結び、仲直りしてきた。
「こっちゃん…」
遥香は震える瞳で、だが目を逸らすことなく心羽の姿を見た。心羽は覚悟を決めたその目に力を籠め、首にかけられたペンダントを右手で引きちぎる。脚は震え、気を抜けば心身は恐怖に飲み込まれそうになる。
「逃げるのはもう終わりか…」
影魔のその言葉が怖気を掻き立てるも、そのままペンダントトップを胸元にもってきて目を閉じれば、先の体感———戦いの記憶がより鮮明に心羽を包んだ。するとペンダントの色が深紅に変わり、心羽の意思に、勇気に応じるかのように強く光りを放つ。その記憶の示すままに、彼女はその右脚を一歩踏み出し、ペンダントを携えた右手を斜め下へと振り下ろす。そうすれば、その足元から伝わる力の奔流が光として迸り魔法陣を形成し、切り裂かれるように閃いた赤い軌跡が炎を生み出し舞い踊る。遥香や周りで見ていた者は、眼前で何が起きているのか理解が追いつかず、ただ圧倒されていた。
影魔はその様に悪魔の顔を歪ませると、炎と光の中にある心羽に襲いかかる。「ああっ!」その場にいた人がその様に声を上げるが、次の瞬間には炎が更に噴出し、影魔を怯ませた。
やがてその背には光の翼が広がり、大きくはためいて取り囲む炎と光をかき消すと、薄紅の衣装を纏い、羽の使者がその姿を現した。
「もう逃げなくていい…守る力はここにあるから」
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