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No.3 1/2
2020年4月16日。花森剣人が目を冷ますと、まず視界に入ってきたのは清潔感を感じさせる白い天井だった。ここは…どこだ?続いて感じたのは手に感じる柔らかな温み。まだ半開きの目線が、その温みを辿る。そこには疲れた顔で自分を見守る母、純子(すみこ)の姿があった。
「…母…さん?」
「…けん…?…けん…!よかった…」
母の頬が涙で濡れる。ああ…また泣かせてしまった…幼いころから不登校だったことから、苦労をかけてしまったと思う故か、母の泣き顔にはどうにも罪悪感を感じてしまう。だけど、良かった…母さんが居てくれて。酷く悪い夢でも見ていたんだ。そうだ、あんな特撮みたいなこと、あるわけないじゃないか。そう思うと、剣人自身の頬にも自然と涙が伝った。
「ごめんね」
「…ううん、心配だったけど無事でよかった。大変だったね」
顔をくしゃくしゃにしながら、労りの言葉をかけてくれる母の思いやりが嬉しい。しかし、"大変だった"…確かにその通りだ。でも、あれは夢だろう?なんで母さんが"大変だった"と思うんだ?そもそも、どうして俺は今、この病室のベッドに居るんだ…?
「…母さん、俺…どこで見つかったの?」
状況から察するに、誰かが自分を見つけなければここには居らず、また母たち家族にも伝わることはない。あの出来事や状況に対しても、今の状況の確認という意味でもそう聞いてみた。
「…朝憧市のあの展望台の近く、あるでしょう?あの近くの畦道だって、警察の方から…」
情景がありありと浮かんでくる。あれは…夢じゃない?俄には信じられない。いや、認められない。ただ、事実として自分はあの場所にいた。その事実が、剣人の顔を恐怖にひきつらせた。
「…けん?…どうしたの…?」
その様子に、純子もまた神妙な面持ちで息子の思いを窺う。息子を気遣い、すぐには何も聞かないつもりだっただけに、彼女は慎重にそれだけを問いかけた。
「……」
しかしすぐには答えることは出来ない。どう説明すればいい?色々しんどくなって自転車で彷徨ってたら、どういうわけか烏みたいな格好の怪物に襲われた。気づいたら自分もその似姿になってて、恐怖と無我夢中で狂乱してそこから逃げようとしたーーーそんな荒唐無稽な話、或いは母にさえ信じてもらえるかわからないし、自分でも受け止めきれなかった。
「思い出させたりしてしんどかったら、ごめん。無理しないでいいよ…今は眠りな」
眉根を寄せ、考え込んでいる様子の剣人の姿に、純子はその心中の全てを察することは出来なかったが、やはり今は深く事情を聞くことは躊躇われたのだろう。
「とにかく目が覚めて良かった」そう続けて話を一度切り上げようとしたが、剣人が咄嗟にそれを遮る。
「えっと…それが…襲われたんだ。何か、変な奴に」
どうにか意を決して一応の説明を始めた出だしは、そんな言葉からだった。病室の窓から見える景色は、あの出来事などまるで気にも止めないかのような青空だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そこは暗闇の回廊。辺りは常闇が拡がり、太陽の光は届かない。まして青空など何処にもなった。人は誰も居らず、在るのは異形の者たち。そこは彼らが拵えた彼ら自身のための空間だった。その中のある場所にて、烏はある魔法装置に繋がれ、特殊魔法溶液ーーー通称ポーションを傷付いた自身に流し込んでいる。
そこにもう一人の異形が訪れた。
「何があった?ネーゲル」
声に反応した烏ーーーネーゲルの赤い眼が相手に向けられる。
「カイルス…」
「あんた程の奴が、そんな深傷を負うとは」
その恐竜を思わせる身をすくませ、もう一方の異形ーーーカイルスは不遜に言った。
「…俺にもよくわからんよ」
ネーゲルが苦々しく告げる。全く面倒な手合いだ。ネーゲルの声音に潜んだそんな思いを見透かしながら、カイルスは関係ないと言わんばかりに問いを続ける。
「ほう…聞かせろ」
「ふん…話すと思うか?殊更お前に」
鬱陶しい。ただただ鬱陶しい。その不遜で見透かしたような態度。虫酸が走る。
「その腐った思考回路で勝手に妄想でもしていろ」
敵意を内包したそんな言葉など意にも介さず、「ほう…」と返すと、カイルスもまた静かだが圧を込めて言い放つ。
「あんた、自分の状況判ってるのか?今の弱ったあんたなら、その揮石を頂くこともできる」
「……」
「御上は今、あんたの値打ちをどの程度のものと見てるんだろうな…?」
「その穢らわしい口を閉じろ」
「まあ、あんた程の奴をそこまで追い詰めたものが何なのかには関心を抱いてはいる」
「……」
「ということで御上の命だ。話せ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その後、父の哲也(てつや)や見舞いに駆けつけていた姉たち夫婦とも対面して少し話し、また眠った。医師曰く幸い外傷も少なく、極度に疲労していた状態からも回復してきているため、あと二日もすれば退院できるということだった。
ただ…長らく眠っていたことと、胸に突き刺さる思いとで、その夜の剣人は目が冴えていた。枕に頭を着けてこそいるものの、眠れない。想起しているのは家族と話した時のことだ。
ーーー「その暴漢に襲われた時、剣人はどうしてそこにいたんだ?」
どうにか異形の烏に襲われた点を暴漢に差し替え、一通りの事情を話すと、哲也がそう聞いてきた。壮年の男の顔に刻まれる心配を内包した皺が、剣人の胸を痛ませるがすぐには返事ができない。
「お父さん、今は…」
純子がどうにか互いの思いを刺激しないように、間に入る。
「…うん…ただな、剣人。お前ずっと苦しそうなんだよ…」
純子の意図を汲みながらも、彼女の思いの代弁と併せての家族の思いを、家長として哲也は伝えた。
「俺がお前のことをわかってやれなかったのも原因なのはそう思う。ただお前が夜にフラッとそんなところに行ってしまう精神状態が、父さんは心配で、不安だ」
伝え方をすごく考えて、話をしてくれている。剣人は率直にそう思った。昔はもっと感情的な伝え方ばかりの人だったが、父として、家族を思う男として変わってくれたことを強く感じた。だからこそ、察してくれたことが図星なのと相俟って、尚更どう応えたらいいかわからない。
「…ごめん」
うわ言のように出てきたのは、口癖としていつも人に言ってしまう謝罪の言葉。その言葉だけで済むわけではないが、続く言葉が出てこない。「◯◯◯たい」なんて続けてしまったら、二人は余計に悲しむから…
「…大学も、バイトも、一人暮らしも、始めたばかりだから…とかって無理しないで、帰ってこないか?」
「正直、言いづらいけどな…今回のこともあって、母さんなんか泣いてしまってた…」
その言葉に、純子もまた出口のないその思いを顔に滲ませながらも剣人を見つめた。剣人はそれを一瞬見やるも、正視することは出来ない。
そもそも今回のことは、剣人の精神的不安定から端を発している。きっと、両親が言ってくれていることの方が正しいし、優しい。自分自身もそうしたい。そう自認すると共に、言葉が出てきた。
「一つだけ…確かめないといけないことがあるんだけど、それ済んだら…いいかな?帰っても…」
「確かめること?」
怪訝な顔でその様子を見つめる両親に、その時の自分の顔はどう写っていたのだろう…
「身体に異常がないか、まだちょっと不安なんだ」
少しは上手く笑えていただろうか?
そうして、「精密検査だけさせてもらって退院したい」家族と看護師にそう伝え、話を終えた。多分そこではっきりする。自分の身に、あの時何が起こったのか…そう思い直してベッドから起き上がり、4年前からお守りとして持っているキーホルダー付きのネックレスを患者着の下に身につける。キーホルダーに施されている星の装飾が放つ淡い光に、これ以上何も起こらないことを願いながら、改めて眠ろうとベッドに入る。その時、巡視に来た看護師の持つ懐中電灯の光が漏れ出るのが、伏せる前の目に少しだけ見えた。
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2020年4月16日。花森剣人が目を冷ますと、まず視界に入ってきたのは清潔感を感じさせる白い天井だった。ここは…どこだ?続いて感じたのは手に感じる柔らかな温み。まだ半開きの目線が、その温みを辿る。そこには疲れた顔で自分を見守る母、純子(すみこ)の姿があった。
「…母…さん?」
「…けん…?…けん…!よかった…」
母の頬が涙で濡れる。ああ…また泣かせてしまった…幼いころから不登校だったことから、苦労をかけてしまったと思う故か、母の泣き顔にはどうにも罪悪感を感じてしまう。だけど、良かった…母さんが居てくれて。酷く悪い夢でも見ていたんだ。そうだ、あんな特撮みたいなこと、あるわけないじゃないか。そう思うと、剣人自身の頬にも自然と涙が伝った。
「ごめんね」
「…ううん、心配だったけど無事でよかった。大変だったね」
顔をくしゃくしゃにしながら、労りの言葉をかけてくれる母の思いやりが嬉しい。しかし、"大変だった"…確かにその通りだ。でも、あれは夢だろう?なんで母さんが"大変だった"と思うんだ?そもそも、どうして俺は今、この病室のベッドに居るんだ…?
「…母さん、俺…どこで見つかったの?」
状況から察するに、誰かが自分を見つけなければここには居らず、また母たち家族にも伝わることはない。あの出来事や状況に対しても、今の状況の確認という意味でもそう聞いてみた。
「…朝憧市のあの展望台の近く、あるでしょう?あの近くの畦道だって、警察の方から…」
情景がありありと浮かんでくる。あれは…夢じゃない?俄には信じられない。いや、認められない。ただ、事実として自分はあの場所にいた。その事実が、剣人の顔を恐怖にひきつらせた。
「…けん?…どうしたの…?」
その様子に、純子もまた神妙な面持ちで息子の思いを窺う。息子を気遣い、すぐには何も聞かないつもりだっただけに、彼女は慎重にそれだけを問いかけた。
「……」
しかしすぐには答えることは出来ない。どう説明すればいい?色々しんどくなって自転車で彷徨ってたら、どういうわけか烏みたいな格好の怪物に襲われた。気づいたら自分もその似姿になってて、恐怖と無我夢中で狂乱してそこから逃げようとしたーーーそんな荒唐無稽な話、或いは母にさえ信じてもらえるかわからないし、自分でも受け止めきれなかった。
「思い出させたりしてしんどかったら、ごめん。無理しないでいいよ…今は眠りな」
眉根を寄せ、考え込んでいる様子の剣人の姿に、純子はその心中の全てを察することは出来なかったが、やはり今は深く事情を聞くことは躊躇われたのだろう。
「とにかく目が覚めて良かった」そう続けて話を一度切り上げようとしたが、剣人が咄嗟にそれを遮る。
「えっと…それが…襲われたんだ。何か、変な奴に」
どうにか意を決して一応の説明を始めた出だしは、そんな言葉からだった。病室の窓から見える景色は、あの出来事などまるで気にも止めないかのような青空だった。
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そこは暗闇の回廊。辺りは常闇が拡がり、太陽の光は届かない。まして青空など何処にもなった。人は誰も居らず、在るのは異形の者たち。そこは彼らが拵えた彼ら自身のための空間だった。その中のある場所にて、烏はある魔法装置に繋がれ、特殊魔法溶液ーーー通称ポーションを傷付いた自身に流し込んでいる。
そこにもう一人の異形が訪れた。
「何があった?ネーゲル」
声に反応した烏ーーーネーゲルの赤い眼が相手に向けられる。
「カイルス…」
「あんた程の奴が、そんな深傷を負うとは」
その恐竜を思わせる身をすくませ、もう一方の異形ーーーカイルスは不遜に言った。
「…俺にもよくわからんよ」
ネーゲルが苦々しく告げる。全く面倒な手合いだ。ネーゲルの声音に潜んだそんな思いを見透かしながら、カイルスは関係ないと言わんばかりに問いを続ける。
「ほう…聞かせろ」
「ふん…話すと思うか?殊更お前に」
鬱陶しい。ただただ鬱陶しい。その不遜で見透かしたような態度。虫酸が走る。
「その腐った思考回路で勝手に妄想でもしていろ」
敵意を内包したそんな言葉など意にも介さず、「ほう…」と返すと、カイルスもまた静かだが圧を込めて言い放つ。
「あんた、自分の状況判ってるのか?今の弱ったあんたなら、その揮石を頂くこともできる」
「……」
「御上は今、あんたの値打ちをどの程度のものと見てるんだろうな…?」
「その穢らわしい口を閉じろ」
「まあ、あんた程の奴をそこまで追い詰めたものが何なのかには関心を抱いてはいる」
「……」
「ということで御上の命だ。話せ」
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その後、父の哲也(てつや)や見舞いに駆けつけていた姉たち夫婦とも対面して少し話し、また眠った。医師曰く幸い外傷も少なく、極度に疲労していた状態からも回復してきているため、あと二日もすれば退院できるということだった。
ただ…長らく眠っていたことと、胸に突き刺さる思いとで、その夜の剣人は目が冴えていた。枕に頭を着けてこそいるものの、眠れない。想起しているのは家族と話した時のことだ。
ーーー「その暴漢に襲われた時、剣人はどうしてそこにいたんだ?」
どうにか異形の烏に襲われた点を暴漢に差し替え、一通りの事情を話すと、哲也がそう聞いてきた。壮年の男の顔に刻まれる心配を内包した皺が、剣人の胸を痛ませるがすぐには返事ができない。
「お父さん、今は…」
純子がどうにか互いの思いを刺激しないように、間に入る。
「…うん…ただな、剣人。お前ずっと苦しそうなんだよ…」
純子の意図を汲みながらも、彼女の思いの代弁と併せての家族の思いを、家長として哲也は伝えた。
「俺がお前のことをわかってやれなかったのも原因なのはそう思う。ただお前が夜にフラッとそんなところに行ってしまう精神状態が、父さんは心配で、不安だ」
伝え方をすごく考えて、話をしてくれている。剣人は率直にそう思った。昔はもっと感情的な伝え方ばかりの人だったが、父として、家族を思う男として変わってくれたことを強く感じた。だからこそ、察してくれたことが図星なのと相俟って、尚更どう応えたらいいかわからない。
「…ごめん」
うわ言のように出てきたのは、口癖としていつも人に言ってしまう謝罪の言葉。その言葉だけで済むわけではないが、続く言葉が出てこない。「◯◯◯たい」なんて続けてしまったら、二人は余計に悲しむから…
「…大学も、バイトも、一人暮らしも、始めたばかりだから…とかって無理しないで、帰ってこないか?」
「正直、言いづらいけどな…今回のこともあって、母さんなんか泣いてしまってた…」
その言葉に、純子もまた出口のないその思いを顔に滲ませながらも剣人を見つめた。剣人はそれを一瞬見やるも、正視することは出来ない。
そもそも今回のことは、剣人の精神的不安定から端を発している。きっと、両親が言ってくれていることの方が正しいし、優しい。自分自身もそうしたい。そう自認すると共に、言葉が出てきた。
「一つだけ…確かめないといけないことがあるんだけど、それ済んだら…いいかな?帰っても…」
「確かめること?」
怪訝な顔でその様子を見つめる両親に、その時の自分の顔はどう写っていたのだろう…
「身体に異常がないか、まだちょっと不安なんだ」
少しは上手く笑えていただろうか?
そうして、「精密検査だけさせてもらって退院したい」家族と看護師にそう伝え、話を終えた。多分そこではっきりする。自分の身に、あの時何が起こったのか…そう思い直してベッドから起き上がり、4年前からお守りとして持っているキーホルダー付きのネックレスを患者着の下に身につける。キーホルダーに施されている星の装飾が放つ淡い光に、これ以上何も起こらないことを願いながら、改めて眠ろうとベッドに入る。その時、巡視に来た看護師の持つ懐中電灯の光が漏れ出るのが、伏せる前の目に少しだけ見えた。
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