鴉と火の鳥 No.1 2/2 【B】 version 19
鴉と火の鳥 No.1 2/2 【B】
朝憬市立望海中学校の屋上にて、夕陽に照らされる望海町を遠目に眺めるブレザー姿の少女がいた。校舎に残った生徒は他には僅かで、彼女の周囲はしんと静まり返っていた。夕陽の中にあって尚も煌めく彼女の赤髪を、風が靡く。
「来た…」
その遠目の向いた方角から飛んでくる鳥の影に少女が声を発した。やがてその影は大きくなって輪郭と体の色を鮮明にしていく。そうして梟の姿となったそれは、程なく少女の頭上、屋上の鉄柵の上に止まった。
「どう?エウィグ」
その名を呼ばれ、少女に仰ぎ見られた梟——エウィグは、彼女を見つめると、その静かな鳴き声を上げ、少女に伝えるための魔法の言葉を嘴から発した。
「事態は中々に深刻です。エクリプスは本格的に蜂起したと見ていいでしょう。住民には何故か被害は出ていませんが…」
「そう…」
エウィグの報告に少女は一瞬俯き、その丸みのある目を伏せた。しかしすぐにその顔を上げると、「続けて」と更なる情報報告を促す。エウィグもまた一瞬だけ足元に目線を落とすも、すぐにまた魔法の言葉を紡いだ。
「…朝憬市の各役所の6割から7割が襲撃されていました」
「そこの人たちは、今どうなってるの?」
「今回は彼ら自身に残された、自治組織としての機能が対処していますが、既にそれも維持していくのは難しそうです」
「それって、具体的には…」
言いながら、少女は今度は決定的に顔を曇らせた。その表情を見遣るエウィグもまた、その黒い目を沈ませる。
「ええ…察しておられる通りです。やはり被害者の殆どは意識混濁がまず認められます」
「もう確定だね…”ここ”の人たちもやっぱり同じ状況だ」
報告された情報を解釈するにつれ、少女の表情が真剣さを増した。遂にはエウィグも一瞬沈黙する。目を閉じて深呼吸した後、少女の顔には年齢不相応な精悍さえ宿っていた。
「ですが本人の素養や回復力によっては、そこから持ち直したケースもあったではありませんか」
そう発した次の瞬間には、いつの間にか少女の肩に舞い降りたエウィグが、彼女の顔をその翼でくすぐるように撫でた。
「エウィグ…」
「必要なのはそのための働きかけです。お嬢様が希望を失うことなきよう、このエウィグも努力を惜しみません。ですので、どうか…」
「ありがとう。私は大丈夫だよ…それに、私がやることもやるべきことも変わらない」
主人のその言葉に、忠実な臣下は静かに喉を鳴らす。少女もまた静かに、夕焼けに色づく望海町の街並みを見つめた。
「私達も戦うんだ、今度は逃げない」
「…承知いたしました。不肖エウィグ、この翼はお嬢様と共に——」
—————————————————————————————
夕焼けの橙が群青と混ざって染まる6時頃、花森健人は朝憬市中央部の駅前にあるコーヒーショップでブレンドコーヒーを啜っていた。スマートフォンと連携させた無線イヤホンから音楽が流れる中、俯いてカップを持つ手元を見つめる。時折顔を上げて窓の外を行き交う人々と街並みを見るも、力ないその身体の動きは緩慢だった。現実への辟易に深呼吸して肩を揺らすと、またコーヒーを啜る。そうしてただ呆然と時間だけが過ぎていけば、空は夜の暗闇へと変わっていた。
「帰らないと」
自身に向けて声をかけ、ジャケットを羽織ると、飲み終えたコーヒーを店のキッチンと接した棚に置き、独りでに開く自動ドアから外に出る。そのまま人々の雑踏を抜け、駅構内に向かおうとしたその時だった。
宵闇に陰る月の薄明かり。いくつか立ち並ぶビルの狭間を赤い光が翔んでいった。一瞬の出来事だったが灯を思わせるその赤は、健人の灰色の瞳に映り込む。
「…流れ星、か…?」
その灯が消えた虚空を見ながら健人は小声で独り呟く。しかし漠然とそこに向いていた意識は、次の瞬間戦慄へと変わった。ふと目を落とすと10メートルほど先から中畑伸弥が早足でこちらに向かってくる。その後ろには仲間らしき少年もおり、髪の色こそ黒であったものの、それ以外の風貌は伸弥と類似していた。4~5歳ほど年下の少年ら相手に、不意に強ばる身体。伸弥の姿を視認した瞬間、迫りくる脅威に身震いさえした。まして最早、あさひろばのボランティアとしての大義名分や後ろ盾はない。浮き足立ったまま半歩後退りする健人に対し、怒気と憎悪を宿した顔の伸弥はすぐそこまで迫ってきた。
「さっきは世話になったな、おい」
睨み付けながら発するその言葉。怒りに任せたその響きに、健人は視線を逸らして沈黙した。その顔は困惑を隠すことも出来ない。
「伸弥、誰こいつ」
「ああ、朝陽のクソボランティアあるだろ?そこのクソガイジ」
「なにそれ、まあシャバ僧の感じすげえけど」
「何でもいいけど、もう関係ないだろ。帰りたいんだけど」
強い侮蔑の言葉を交えて伸弥と仲間が話を共有する中、一言だけは発したものの、尚も健人の右足は後ろに半歩下がったままだった。
「は?人の面子潰しといて逃げんなよ。来いや」
その言葉と共に伸弥は健人の肩を強く掴む。背は健人の方が高いものの、その強く鋭い眼光や威圧はそれ以上一切の言葉を許さなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――
人目のつかない裏路地に連れ込まれるや否や、腹を殴られ息を飲んだ。
「…何すんだ、やめろっ!」
「お前のせいでやりにくくなったろうが、あ?」
叫びを上げながらよろめく健人の身体に、今度は蹴りが加えられる。
「逆恨みだろ…!」
「叫ぶな」
「やりすぎんなよ~」
更に顔に一撃を入れられて倒れ込んだところに、上から声が二つ降ってきた。伸弥の暗く静かな怒声。そして状況を一、二歩後ろから見る仲間の飄々とした声。
「皆、お前みたいな白い目ですぐ俺を見てよ」
上体を起こすもののすぐにまた胸を蹴られ、痛みに浅い呼吸を繰り返す。
「"自分はまともです"みてえな面して…”いつも悪いのは俺だ”ってよ。嗤えるよな、ホント」
言葉を続けると共に身を屈めた慎弥は、今一度健人の胸倉を掴み上げた。その時——
「…なんで俺がそれで殴られんだよ…ざけんなコラァ!!」
形振り構わない震えながらの叫びと共に、健人の右拳が慎弥の頬を打った。しかし力の乗らないその拳は慎弥を払いのけるには至らない。慎弥からは何も返答はなかった。彼はただ目を見開き、万力を込めた拳で健人の顔を強く殴打した。そして今一度胸ぐらを掴まれる。健人の目は半開きで据わっていた。その瞳は力と光を失い、何も映していない。二者のその様に流石に仲間が再度声を発した。
「おい、伸弥。流石にやべえぞ」
「お前も俺をそう言うのか」
「ちげえよ、これ以上はやめとけ…万一こいつ死んだら俺たちがやべえ。今の叫びも響いたし」
血走った目の伸弥に、仲間はそれだけ告げる。一瞬の後に舌打ちの音が辺りに響き、「そうだな」と低い声の返答が続いた。その返答の直後——
「おい…」
仲間の背後に、黒コートの男の存在に、伸弥がポツリと声を発した。
「やはり大差ないな…我々も、お前たちも」
「誰だ、あんた」
「このシャバ僧の関係者か」
夜の闇から忽然と現れたイレギュラーに、少年たちは警戒と敵意を露にする。同時に胸ぐらを捕んでいた伸弥の手が解かれ、健人の上半身が地面に落ちた。
「いや、強いて言うなら…"狩り"にきた。ハイエナにはお引き取り願おう」
「意味わかんねえな…入ってくるなや、他所行け」
「縄張り意識だけは人一倍と見える」
それだけ言い放つと共に、その身体は"悪魔"の姿へと変わった。黒コートの長身が更に一回り大きくなり、闇の中に獅子を思わせる相貌が浮かび上がる。その異様が少年たちを少なからず驚愕させた一瞬ーー悪魔はその隙を逃さなかった。少年たちの懐に迫ったその巨体は、彼らをいとも簡単に突き飛ばす。
2メートルほど先まで飛んだ身体を辛うじて起こし、戦慄と共に少年たちは声にならぬ声を上げてその場から逃げ去った。悪魔はそれには目もくれず、力なく倒れたままの健人に顔を向ける。
「殺せよ、なあ――」
そう言いながら健人もまた悪魔の方を向いた。腫れた頬と、表情が凝固した虚ろな顔のまま——。
「所詮は無力、無能…挑みかかり、自壊を繰り返した愚かな魂。その末路、頂こうか」
健人の胸に虚空が開く。気が付けば”そこ”には誰もいない。先の少年たちはもちろん、それまで多少なりとも響いていた街の喧騒さえ、届くことはなくなっていた。夜の暗闇以上に暗い暗黒が、仰向けに倒れた健人と彼を見下ろす悪魔を包みこんでいる。霧と同じ色をした二者の瞳は互いに逸らされることはないが、同時に何も映してはいない。悪魔がその異形の右腕を僅かに掲げる。肩に宿したヤギの角と頭を思わせる意匠が震えると同時に、悪魔が今一度一つ呟いた。
「私が引き継ぐ、故に眠れ——。」
そうして、花森健人の世界は暗転した。
―――――――――――――――――――――――――――――
夜空にそびえ立つビル、種々の建造物。交通整理のライト、電光掲示版。飲食店や商業施設の電飾。
街を彩る人工の光は、月の光と共に人々の夜を照らす。これらの光が集中する市街地中心部。そこを僅かに外れ、「テナント募集」の壁紙が張られたビルの屋上——その場所に”赤髪の魔女”と呼ばれる少女はいた。人知れず朝憬市の夜を駆ける間の、僅かの休息。その傍らで梟は身を丸め、彼女と同じく身を休めている。
しかし突如、丸くしていた羽毛は逆立った。その様に異変を察知し、魔女は即座に梟に尋ねる。
「どうしたのエウィグ?」
「お嬢様、強い魔力が東で発しております!」
「え…」
エウィグは嘴から紡ぐ魔法の言葉で、彼女に向けて警戒を呼び掛けた。暗闇と月明かりの中、東を向いた魔女の赤い瞳と髪が僅かに揺れる。
「…ホントだ、何が起きてるの…?」
「わかりません。これまでに感じたことがないほどの力です」
「まさか——」
推測しながらエウィグを見遣る魔女に、震える魔法の言葉でその見立てが告げられた。
「…我々以外の魔力となれば、奴らと見ていいでしょう」
「なら行かなきゃ。無視できない!」
「危険です、お嬢様!」
逸る思いから即答する魔女の身体に力が入る。そのまま自身の身を案じる者の制止を振り切る勢いで駆け出すと、彼女は人の身を超越した力を両脚に込めてビルの屋上から跳躍した。
「ああもう、また御一人で突っ走って…!」
エウィグも慌てて後を追う。その翼を広げて飛翔した時には、既に数メートル先にあるマンションの屋上を行く魔女の姿。
「せっかちな方だ!こういう時の貴方はいつも私の話を聞かない!」
従者は大声で苦言を呈しながら、まだあどけなさすら残る主人の背を追った。
―――――――――――――――――――――――――――――
その時、暗転したはずの世界に光が射した。発生源は花森健人——その胸の虚空からさらに奥。
「なにっ…!」
「…これって…」
淡く輝く光に、それを発する健人自身も目を見開いた。その表情にあった、虚ろな凝固が解けていく。対して悪魔は驚愕すると共に右腕を引っ込めようとするも、胸に輝く光の孔に引きずり込まれていった。沈んでいく腕は、光の中で粒子となって拡散していく。
悪魔は脅威と苦悶に叫びを上げ、自らの左腕で右腕を切り落とした。一連の超常的な現象かつ狂的な状況に対し、健人は憔悴しながらも声を上げる。
「…何なんだよ、これ」
「囀ずるな!…面妖な力を使う…」
切り離された右腕が粒子と溶けて光の孔に消えた。同時に悪魔が怨嗟と共に、左腕を強く突き出す。狙いは健人の首。瞬時に全身をひきつらせて身構え、健人は強く目を閉じる。しかしその瞬間、左腕の動きは制止した。
恐る恐る目を開け、健人は自身の首と胸元の間を見る。そこには、もう一つ異形の腕が生え出ており、悪魔の左腕を掴んで制止していた。否――見えたのは悪魔のそれとはまた異なる、白く大きい鋭利な爪の付いた腕。
「…この光、その力、貴様——」
「何者だってか…そんなもん、オレが聞きたいわ」
第三者の声がこの空間に響いた。悪魔の声とは違い、健人の口元も震えるだけ。彼ら二者から発したものではない。二者の視線は白い腕に注がれた。
「えっ――」
その瞬間、光の孔が強く瞬き、悪魔はその閃光に左腕を離して身を翻す。そして溢れる光の奔流と共に、白い腕に続いてその頭部が、胴体が、脚が滑るように光の中から生まれていく。
光の発生源である健人自身も驚嘆する間に、生まれ出でた人型の"白い鴉"はそのまま宙返りし、その背に並んで浮いていた。そして光の奔流は鴉の元へと流れ、白銀の装甲と腰に携えた太刀へと姿を変えていく。身を震わせたまま振り向いた健人は、長身である自身よりも一回りは大きい鴉を見上げた。
「どうなってんだ…」
「さあ、オレも良くわからん」
「何で、俺の中からアイツみたいなのが出てくんだよ」
烏天狗と鬼の面を思わせる顔、鋭い片目は表情を覗かせない。しかし困惑を口にする健人に、鴉はあっけらかんとして返した。
「オレも生まれたてやけん、宿主にそう言われてもな」
「宿主…?」
「ていうかお前じゃろ?オレの宿主。お前から出てきたんじゃし」
「…はあ?」
そんな言葉にならない抗議は、ほぼ同時に響いた悪魔の唸り声にかき消される。
「貴様、エクリプスか?」
「…まあしかしアレが親だとは、ちょっと思いたくないのう」
「私から発したエクリプスかと聞いている!」
「どうかのう…?」
鴉が返答した瞬間、両端の肥大した棍を左腕に携え悪魔は突進してくる。その圧に叫ぶ間もなく健人が息を呑むが、背後の鴉が即座に太刀を抜いて振り下ろされる棍の一撃を防いだ。
「惚けるな!」
「惚けとらんわ、これが答え…お前は敵じゃ」
太刀と棍が互いを弾き、またぶつかる。その衝撃のただ中、健人は身を翻してその場から逃げようと駆けだした。背後にある鴉の身体が、引き摺られるようにその後を追随する。
「おいっ!何を引っ張りよるんじゃ!」
「…何でお前までこっちに来るんだよ!」
「オレにもわからんわ、んなもん!」
互いに自身らに起きた不可思議な現象を問うも、互いから答えは返ってこない。その最中も悪魔による追撃は健人と鴉の身を肉薄する。健人の悲鳴が周囲の空間に響いた。
「いずれにせよ敵ということなら消えてもらう」
「先に手を出したのはそっちじゃろ、バカ!」
悪魔の棍から衝撃波が発し、健人と鴉を追い詰めていく。鴉の抗議は空しく響き、健人たちの身体は衝撃波の余波で飛んでいき、そのまま倒れこんだ。尚も衝撃波が飛んでくるも、前に出る鴉の素早い身のこなしと太刀がこれを往なして弾く。
「クソ!ジリ貧じゃ…おい宿主、お前の名前は?」
「なんで今なんだよ!」
「どうも俺とお前は一蓮托生じゃ!名前も知らんのと覚悟は決めれん!」
鴉はそれだけ言うと、ひたすら攻撃を往なし続ける。自身を待つその背に、健人は一瞬強く目を閉じ、そして開く。
「…健人…花森健人!」
「よっしゃ、健人…オレはネーゲルじゃ。お前を守る覚悟をオレは決めた!お前も覚悟決めて前に出てくれ!でないとここは凌げん!」
「お前、自分がなに言ってるかわかってんのか!?」
——————————————————————————————
//この心羽とエウィグ、健人とネーゲルの掛け合い好きなんよな…。モルの頭ではどうやっても生み出せない尊い描写が最高です。気持ち的には全部採用したいから【A】なんだけど、伸弥やあさひろば関連の描写が今のNo.1と繋がらないので【B】です。この項目、転用できるところは全部転用したいな…。//
朝憬市立望海中学校の屋上にて、夕陽に照らされる望海町を遠目に眺めるブレザー姿の少女がいた。校舎に残った生徒は他には僅かで、彼女の周囲はしんと静まり返っていた。夕陽の中にあって尚も煌めく彼女の赤髪を、風が靡く。
「来た…」
その遠目の向いた方角から飛んでくる鳥の影に少女が声を発した。やがてその影は大きくなって輪郭と体の色を鮮明にしていく。そうして梟の姿となったそれは、程なく少女の頭上、屋上の鉄柵の上に止まった。
「どう?エウィグ」
その名を呼ばれ、少女に仰ぎ見られた梟——エウィグは、彼女を見つめると、その静かな鳴き声を上げ、少女に伝えるための魔法の言葉を嘴から発した。
「事態は中々に深刻です。エクリプスは本格的に蜂起したと見ていいでしょう。住民には何故か被害は出ていませんが…」
「そう…」
エウィグの報告に少女は一瞬俯き、その丸みのある目を伏せた。しかしすぐにその顔を上げると、「続けて」と更なる情報報告を促す。エウィグもまた一瞬だけ足元に目線を落とすも、すぐにまた魔法の言葉を紡いだ。
「…朝憬市の各役所の6割から7割が襲撃されていました」
「そこの人たちは、今どうなってるの?」
「今回は彼ら自身に残された、自治組織としての機能が対処していますが、既にそれも維持していくのは難しそうです」
「それって、具体的には…」
言いながら、少女は今度は決定的に顔を曇らせた。その表情を見遣るエウィグもまた、その黒い目を沈ませる。
「ええ…察しておられる通りです。やはり被害者の殆どは意識混濁がまず認められます」
「もう確定だね…”ここ”の人たちもやっぱり同じ状況だ」
報告された情報を解釈するにつれ、少女の表情が真剣さを増した。遂にはエウィグも一瞬沈黙する。目を閉じて深呼吸した後、少女の顔には年齢不相応な精悍さえ宿っていた。
「ですが本人の素養や回復力によっては、そこから持ち直したケースもあったではありませんか」
そう発した次の瞬間には、いつの間にか少女の肩に舞い降りたエウィグが、彼女の顔をその翼でくすぐるように撫でた。
「エウィグ…」
「必要なのはそのための働きかけです。お嬢様が希望を失うことなきよう、このエウィグも努力を惜しみません。ですので、どうか…」
「ありがとう。私は大丈夫だよ…それに、私がやることもやるべきことも変わらない」
主人のその言葉に、忠実な臣下は静かに喉を鳴らす。少女もまた静かに、夕焼けに色づく望海町の街並みを見つめた。
「私達も戦うんだ、今度は逃げない」
「…承知いたしました。不肖エウィグ、この翼はお嬢様と共に——」
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夕焼けの橙が群青と混ざって染まる6時頃、花森健人は朝憬市中央部の駅前にあるコーヒーショップでブレンドコーヒーを啜っていた。スマートフォンと連携させた無線イヤホンから音楽が流れる中、俯いてカップを持つ手元を見つめる。時折顔を上げて窓の外を行き交う人々と街並みを見るも、力ないその身体の動きは緩慢だった。現実への辟易に深呼吸して肩を揺らすと、またコーヒーを啜る。そうしてただ呆然と時間だけが過ぎていけば、空は夜の暗闇へと変わっていた。
「帰らないと」
自身に向けて声をかけ、ジャケットを羽織ると、飲み終えたコーヒーを店のキッチンと接した棚に置き、独りでに開く自動ドアから外に出る。そのまま人々の雑踏を抜け、駅構内に向かおうとしたその時だった。
宵闇に陰る月の薄明かり。いくつか立ち並ぶビルの狭間を赤い光が翔んでいった。一瞬の出来事だったが灯を思わせるその赤は、健人の灰色の瞳に映り込む。
「…流れ星、か…?」
その灯が消えた虚空を見ながら健人は小声で独り呟く。しかし漠然とそこに向いていた意識は、次の瞬間戦慄へと変わった。ふと目を落とすと10メートルほど先から中畑伸弥が早足でこちらに向かってくる。その後ろには仲間らしき少年もおり、髪の色こそ黒であったものの、それ以外の風貌は伸弥と類似していた。4~5歳ほど年下の少年ら相手に、不意に強ばる身体。伸弥の姿を視認した瞬間、迫りくる脅威に身震いさえした。まして最早、あさひろばのボランティアとしての大義名分や後ろ盾はない。浮き足立ったまま半歩後退りする健人に対し、怒気と憎悪を宿した顔の伸弥はすぐそこまで迫ってきた。
「さっきは世話になったな、おい」
睨み付けながら発するその言葉。怒りに任せたその響きに、健人は視線を逸らして沈黙した。その顔は困惑を隠すことも出来ない。
「伸弥、誰こいつ」
「ああ、朝陽のクソボランティアあるだろ?そこのクソガイジ」
「なにそれ、まあシャバ僧の感じすげえけど」
「何でもいいけど、もう関係ないだろ。帰りたいんだけど」
強い侮蔑の言葉を交えて伸弥と仲間が話を共有する中、一言だけは発したものの、尚も健人の右足は後ろに半歩下がったままだった。
「は?人の面子潰しといて逃げんなよ。来いや」
その言葉と共に伸弥は健人の肩を強く掴む。背は健人の方が高いものの、その強く鋭い眼光や威圧はそれ以上一切の言葉を許さなかった。
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人目のつかない裏路地に連れ込まれるや否や、腹を殴られ息を飲んだ。
「…何すんだ、やめろっ!」
「お前のせいでやりにくくなったろうが、あ?」
叫びを上げながらよろめく健人の身体に、今度は蹴りが加えられる。
「逆恨みだろ…!」
「叫ぶな」
「やりすぎんなよ~」
更に顔に一撃を入れられて倒れ込んだところに、上から声が二つ降ってきた。伸弥の暗く静かな怒声。そして状況を一、二歩後ろから見る仲間の飄々とした声。
「皆、お前みたいな白い目ですぐ俺を見てよ」
上体を起こすもののすぐにまた胸を蹴られ、痛みに浅い呼吸を繰り返す。
「"自分はまともです"みてえな面して…”いつも悪いのは俺だ”ってよ。嗤えるよな、ホント」
言葉を続けると共に身を屈めた慎弥は、今一度健人の胸倉を掴み上げた。その時——
「…なんで俺がそれで殴られんだよ…ざけんなコラァ!!」
形振り構わない震えながらの叫びと共に、健人の右拳が慎弥の頬を打った。しかし力の乗らないその拳は慎弥を払いのけるには至らない。慎弥からは何も返答はなかった。彼はただ目を見開き、万力を込めた拳で健人の顔を強く殴打した。そして今一度胸ぐらを掴まれる。健人の目は半開きで据わっていた。その瞳は力と光を失い、何も映していない。二者のその様に流石に仲間が再度声を発した。
「おい、伸弥。流石にやべえぞ」
「お前も俺をそう言うのか」
「ちげえよ、これ以上はやめとけ…万一こいつ死んだら俺たちがやべえ。今の叫びも響いたし」
血走った目の伸弥に、仲間はそれだけ告げる。一瞬の後に舌打ちの音が辺りに響き、「そうだな」と低い声の返答が続いた。その返答の直後——
「おい…」
仲間の背後に、黒コートの男の存在に、伸弥がポツリと声を発した。
「やはり大差ないな…我々も、お前たちも」
「誰だ、あんた」
「このシャバ僧の関係者か」
夜の闇から忽然と現れたイレギュラーに、少年たちは警戒と敵意を露にする。同時に胸ぐらを捕んでいた伸弥の手が解かれ、健人の上半身が地面に落ちた。
「いや、強いて言うなら…"狩り"にきた。ハイエナにはお引き取り願おう」
「意味わかんねえな…入ってくるなや、他所行け」
「縄張り意識だけは人一倍と見える」
それだけ言い放つと共に、その身体は"悪魔"の姿へと変わった。黒コートの長身が更に一回り大きくなり、闇の中に獅子を思わせる相貌が浮かび上がる。その異様が少年たちを少なからず驚愕させた一瞬ーー悪魔はその隙を逃さなかった。少年たちの懐に迫ったその巨体は、彼らをいとも簡単に突き飛ばす。
2メートルほど先まで飛んだ身体を辛うじて起こし、戦慄と共に少年たちは声にならぬ声を上げてその場から逃げ去った。悪魔はそれには目もくれず、力なく倒れたままの健人に顔を向ける。
「殺せよ、なあ――」
そう言いながら健人もまた悪魔の方を向いた。腫れた頬と、表情が凝固した虚ろな顔のまま——。
「所詮は無力、無能…挑みかかり、自壊を繰り返した愚かな魂。その末路、頂こうか」
健人の胸に虚空が開く。気が付けば”そこ”には誰もいない。先の少年たちはもちろん、それまで多少なりとも響いていた街の喧騒さえ、届くことはなくなっていた。夜の暗闇以上に暗い暗黒が、仰向けに倒れた健人と彼を見下ろす悪魔を包みこんでいる。霧と同じ色をした二者の瞳は互いに逸らされることはないが、同時に何も映してはいない。悪魔がその異形の右腕を僅かに掲げる。肩に宿したヤギの角と頭を思わせる意匠が震えると同時に、悪魔が今一度一つ呟いた。
「私が引き継ぐ、故に眠れ——。」
そうして、花森健人の世界は暗転した。
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夜空にそびえ立つビル、種々の建造物。交通整理のライト、電光掲示版。飲食店や商業施設の電飾。
街を彩る人工の光は、月の光と共に人々の夜を照らす。これらの光が集中する市街地中心部。そこを僅かに外れ、「テナント募集」の壁紙が張られたビルの屋上——その場所に”赤髪の魔女”と呼ばれる少女はいた。人知れず朝憬市の夜を駆ける間の、僅かの休息。その傍らで梟は身を丸め、彼女と同じく身を休めている。
しかし突如、丸くしていた羽毛は逆立った。その様に異変を察知し、魔女は即座に梟に尋ねる。
「どうしたのエウィグ?」
「お嬢様、強い魔力が東で発しております!」
「え…」
エウィグは嘴から紡ぐ魔法の言葉で、彼女に向けて警戒を呼び掛けた。暗闇と月明かりの中、東を向いた魔女の赤い瞳と髪が僅かに揺れる。
「…ホントだ、何が起きてるの…?」
「わかりません。これまでに感じたことがないほどの力です」
「まさか——」
推測しながらエウィグを見遣る魔女に、震える魔法の言葉でその見立てが告げられた。
「…我々以外の魔力となれば、奴らと見ていいでしょう」
「なら行かなきゃ。無視できない!」
「危険です、お嬢様!」
逸る思いから即答する魔女の身体に力が入る。そのまま自身の身を案じる者の制止を振り切る勢いで駆け出すと、彼女は人の身を超越した力を両脚に込めてビルの屋上から跳躍した。
「ああもう、また御一人で突っ走って…!」
エウィグも慌てて後を追う。その翼を広げて飛翔した時には、既に数メートル先にあるマンションの屋上を行く魔女の姿。
「せっかちな方だ!こういう時の貴方はいつも私の話を聞かない!」
従者は大声で苦言を呈しながら、まだあどけなさすら残る主人の背を追った。
―――――――――――――――――――――――――――――
その時、暗転したはずの世界に光が射した。発生源は花森健人——その胸の虚空からさらに奥。
「なにっ…!」
「…これって…」
淡く輝く光に、それを発する健人自身も目を見開いた。その表情にあった、虚ろな凝固が解けていく。対して悪魔は驚愕すると共に右腕を引っ込めようとするも、胸に輝く光の孔に引きずり込まれていった。沈んでいく腕は、光の中で粒子となって拡散していく。
悪魔は脅威と苦悶に叫びを上げ、自らの左腕で右腕を切り落とした。一連の超常的な現象かつ狂的な状況に対し、健人は憔悴しながらも声を上げる。
「…何なんだよ、これ」
「囀ずるな!…面妖な力を使う…」
切り離された右腕が粒子と溶けて光の孔に消えた。同時に悪魔が怨嗟と共に、左腕を強く突き出す。狙いは健人の首。瞬時に全身をひきつらせて身構え、健人は強く目を閉じる。しかしその瞬間、左腕の動きは制止した。
恐る恐る目を開け、健人は自身の首と胸元の間を見る。そこには、もう一つ異形の腕が生え出ており、悪魔の左腕を掴んで制止していた。否――見えたのは悪魔のそれとはまた異なる、白く大きい鋭利な爪の付いた腕。
「…この光、その力、貴様——」
「何者だってか…そんなもん、オレが聞きたいわ」
第三者の声がこの空間に響いた。悪魔の声とは違い、健人の口元も震えるだけ。彼ら二者から発したものではない。二者の視線は白い腕に注がれた。
「えっ――」
その瞬間、光の孔が強く瞬き、悪魔はその閃光に左腕を離して身を翻す。そして溢れる光の奔流と共に、白い腕に続いてその頭部が、胴体が、脚が滑るように光の中から生まれていく。
光の発生源である健人自身も驚嘆する間に、生まれ出でた人型の"白い鴉"はそのまま宙返りし、その背に並んで浮いていた。そして光の奔流は鴉の元へと流れ、白銀の装甲と腰に携えた太刀へと姿を変えていく。身を震わせたまま振り向いた健人は、長身である自身よりも一回りは大きい鴉を見上げた。
「どうなってんだ…」
「さあ、オレも良くわからん」
「何で、俺の中からアイツみたいなのが出てくんだよ」
烏天狗と鬼の面を思わせる顔、鋭い片目は表情を覗かせない。しかし困惑を口にする健人に、鴉はあっけらかんとして返した。
「オレも生まれたてやけん、宿主にそう言われてもな」
「宿主…?」
「ていうかお前じゃろ?オレの宿主。お前から出てきたんじゃし」
「…はあ?」
そんな言葉にならない抗議は、ほぼ同時に響いた悪魔の唸り声にかき消される。
「貴様、エクリプスか?」
「…まあしかしアレが親だとは、ちょっと思いたくないのう」
「私から発したエクリプスかと聞いている!」
「どうかのう…?」
鴉が返答した瞬間、両端の肥大した棍を左腕に携え悪魔は突進してくる。その圧に叫ぶ間もなく健人が息を呑むが、背後の鴉が即座に太刀を抜いて振り下ろされる棍の一撃を防いだ。
「惚けるな!」
「惚けとらんわ、これが答え…お前は敵じゃ」
太刀と棍が互いを弾き、またぶつかる。その衝撃のただ中、健人は身を翻してその場から逃げようと駆けだした。背後にある鴉の身体が、引き摺られるようにその後を追随する。
「おいっ!何を引っ張りよるんじゃ!」
「…何でお前までこっちに来るんだよ!」
「オレにもわからんわ、んなもん!」
互いに自身らに起きた不可思議な現象を問うも、互いから答えは返ってこない。その最中も悪魔による追撃は健人と鴉の身を肉薄する。健人の悲鳴が周囲の空間に響いた。
「いずれにせよ敵ということなら消えてもらう」
「先に手を出したのはそっちじゃろ、バカ!」
悪魔の棍から衝撃波が発し、健人と鴉を追い詰めていく。鴉の抗議は空しく響き、健人たちの身体は衝撃波の余波で飛んでいき、そのまま倒れこんだ。尚も衝撃波が飛んでくるも、前に出る鴉の素早い身のこなしと太刀がこれを往なして弾く。
「クソ!ジリ貧じゃ…おい宿主、お前の名前は?」
「なんで今なんだよ!」
「どうも俺とお前は一蓮托生じゃ!名前も知らんのと覚悟は決めれん!」
鴉はそれだけ言うと、ひたすら攻撃を往なし続ける。自身を待つその背に、健人は一瞬強く目を閉じ、そして開く。
「…健人…花森健人!」
「よっしゃ、健人…オレはネーゲルじゃ。お前を守る覚悟をオレは決めた!お前も覚悟決めて前に出てくれ!でないとここは凌げん!」
「お前、自分がなに言ってるかわかってんのか!?」
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//この心羽とエウィグ、健人とネーゲルの掛け合い好きなんよな…。モルの頭ではどうやっても生み出せない尊い描写が最高です。気持ち的には全部採用したいから【A】なんだけど、伸弥やあさひろば関連の描写が今のNo.1と繋がらないので【B】です。この項目、転用できるところは全部転用したいな…。//