『……次のニュースです。現在、正体不明の黒い霧に覆われている穿霹(せんへき)町で、先日から住民を捜索している警察官8名が行方不明となりました。このことに県警は「事態の混迷を避けるべく、政府による調査に協力すると共に、(8名を)捜索したい」とコメントしています。一体、穿霹市何が起きているのでしょうか……専門家は次のように述べています――』
―――大して要領を掴めない専門家のインタビューの流れるテレビのニュースを聞き流しながら心羽(ここは)は朝食を終える。
「気味が悪いニュースが続くな…」
心羽の父――明(あきら)が眠気に目を細めながら言った。家族の朝食を作り終えた心羽の母――詩乃(しの)が、夫と愛娘の座る食卓の方に向きながら返事する。
「国も動くようなことだと、さすがに怖くなるね…」
少々不安げな母の様子に、心羽も万一の状況として、何が起きるだろうか想像した。しかし具体的に何があるだろうかと考えてはみても、漠然とした危機感ばかりが浮かぶ――
件の穿霹市で生じた、黒い霧と、住民の不可解な集団消失事件。それは少なからず、その周辺の自治体や地域にこうした不安を与えていた。そのうちの一つ、心羽の一家の住む、この慧惺(すいせい)市も例外ではなかった。このニュースを受け、何事もなく解決すればいいと感じる者、特別関係ないと感じる者、それぞれの受け取り方はあれど、何も出てこない”消える”ばかりの現状では、皆、静観せざるを得ない。
「何か、できることはないのかな…」
既に芸能ニュースに切り替わったテレビを、ぼんやり眺めながら心羽が呟く。その眉根は、ほんの少しだけ中心に寄っていた。明と詩乃は娘のその一言に、怪訝さと微笑を交えた複雑な表情を浮かべて、「そう思えることが大事」「そうだよ」と告げた。
この娘は、その感受性と優しさ故に、世の中の困難や心配事には敏感だ。自身を守る術も、可能な限り自分に持たせてやってほしい。というのが両親からの心羽への願いだった。――それに、あんなことがなければ――その思いを本人に悟らせないよう、続く言葉に毅然さと慈しみを込めながら、詩乃が続ける。
「今は、切り替えていきましょ。あ、ほら、お父さんも心羽も、支度しないと!」
母のその一言で現実に引き戻されると、心羽と明は、各々急いで身支度に取り掛かった。
春先の肌寒さと朝日の温かみの中、心羽は自転車を漕ぎ、市立慧惺高校(通称、慧高)へと向かう。春風が彼女の頬を撫で、その赤毛のボブカットを揺らす中、明け方の光に桜が照らされる。部活の朝練を控えた、まだ東の太陽がまぶしい時間――周囲の学生は、昨日教師から出された課題が面倒だとか、テレビは何を見たかだとか、部活に新入部員を如何にかき入れるかなど、それぞれが話している。しかし心羽はそれらを認識するより、先のニュースのような非日常の風景を反芻し、それが自分たちの町の近くで起きていることに心をざわつかせていた。一人で自転車を漕ぐその脚も、どこか他の学生と比べるとどこか緩慢だ。
――あんな大きなこと…全く何もできない以上、自分にできることいえばこうして日常を生きていくことくらい。それに実際、まだ慧高に入学したばかりの私には、新しい高校生活についていくのが精一杯…わかってるんだけど、どこか落ち着かない。なんだろう、この感じ…心のどこかに空虚があって、それが引っかかってる自分がいる。でもなんなのだろう、なんでこう思っているのだろう…わからない――そんな漠然とした空虚と焦燥が綯い交ぜになった心を振り払うべく、心羽は自転車の速度を上げて、民家やその家々の田んぼ・畑の並ぶ田舎道を走りぬける。
田舎道の先にある慧惺高校の東口の校門を素早く通り抜けると、心羽は徐々に自転車のブレーキをかけ、駐輪場に自転車を留め後輪のカギをかけた。そして小走りにグラウンドの脇を通り、校舎の玄関に入ると、下駄箱に自身の靴を入れてシューズに履き替え、引き続きその小柄な体躯を小走りに動かし、校舎の東棟3階にある音楽室へ向かって廊下を、階段を駆ける。そうして音楽室にたどり着くと、その裏にある楽器庫からトランペットが入った楽器ケースを取りだして、誰もいない室内のカーテンを開けて朝日が差し込む中、楽器を組み立てる。そうして準備が整うと、朝日に向かった心羽は上気した顔と心のままに、トランペットのマウスピース(吹き口)に少し上がったその息を吹き込んだ――
――そう言えば、昨日見た夢も不思議なものだった。
どんな夢だったかはもうよく思い出せないけど、ずっと夢の中にいたくなるような幸せな夢だったなぁ...
朝焼けの向こうに飛び交う鳥へ、その旋律を奏でながら、心羽は思った。
―――同時刻、穿霹市 某所
トランペットの音色など遥か虚空に消え、朝焼けも何も、光ない一面の黒い霧…その闇にほんの僅か、微かに輪郭だけが認められる”人影”があった。そして上空からは、”人影”の立つ展望台の頂上に近づくまた”別の影”が、天を仰ぐその輪郭を頼りに、背にある鳥のような翼を羽ばたかせる。そうして二つの影は近づき、やがてその羽音は止まった。その翼もまた闇に溶け込み、”人影”の目にも”別の影”の姿はおぼろげにしか判別できない。やがて”人影”の顔の部分、視線が自分より幾分か小さな体躯とその翼に注がれた。”人影”の口角が吊り上がり、口が開かれる。
「種は撒かれたか…問題はここからどう芽吹くかだ。その果てに実るのは滅びか進化か。選び取るのは、私か人々か」
その声音は低く、男のものだった。言いながら“彼”は、展望台の柵に手を掛け、眼下の闇とそれに染まった街並みを見つめる。人の気配など、そこには――ない。彼のどこか無邪気な話し方に、”別の影”が言った。
「どっちだろうと、どうでもいい」
声音はソプラノの少女のもの。“彼”はその言い方に、少女の抱く虚無を感じ取りながらも、やれやれといった様子で「寂しいな」とだけ返して続ける。
「一つだけはっきりしていることがある。実を結んだ時には、私はこの世にいないだろう。君は…どうなっているかな?」
“彼”は少女を見やる。表情は見えないが、少女にはそんなこと関係なかった。
「口にすると安くなる。相手があなたであっても、話すことじゃない」
それだけ告げると少女は一つ小さくため息をついた。
「不言実行か…いい心がけだ。自分の腹積もりなど、確かに簡単にひけらかすものじゃない。ここぞというときに開示するものだ。それが、エンターテインメント」
「あなたのその道化めいた言い方、好きじゃない」
“彼”が言い終わるや否や、少女が矢継ぎ早に言い放った。
「つれないな、もう少し肩の力を抜いたらどうだ」
頭を斜め45度に上に向けて落胆した”ふり”を演出する“彼”の背を一瞥し、少女は踵を返して翼を拡げる。そうして飛び立つ瞬間、その羽音にかき消されるような小声で呟いた。
「…馬鹿言わないで」
「まあ、やるだけやってみるか…そちらも任せるよ、弓音(ゆのん)」
街並みからも少女——弓音からも、当然返答などなかったが、“彼”は展望台から飛び去る弓音の姿を目で追うことはなく、闇の街並みの方を向いて、それだけ言った―――
―――その日の慧惺高校の4限目終了のチャイムが学生たちの耳に響く。
「じゃあ、今日の授業はここまで…各自、今出した課題の提出は早めにな~」
程よく力の抜けたベテランの数学教諭の注意喚起もそこそこに、1年B組の生徒たちの殆どは昼食の準備を始める。学食を確保に向かうべく急いで小銭を数える男子、コンパクトな弁当箱の包みを広げた机を、近くの友達と寄せ合う女子など、各々の憩いの時間である昼食は、数式とのにらめっこから解放された彼らには、さながら日常の小さなご褒美だ。
教室、黒板を背にした教壇から見て縦5列、横4列からなる生徒20名。その4列の右側に位置する窓際、中間である縦3列目の席の心羽は、入学からの数日、部活や授業の合間に数名の生徒と話をしてはいるが、現状では特定の友人というものはまだできていない。今日は母の作ってくれた弁当をどこで食べようかと思案していると…こちらを見ている女子生徒と目が合った。女子生徒はその黒いロングヘアを揺らして、ふわりとした笑みを湛えて言った。
「心羽ちゃん、一緒に食べない?」
思わず心羽のあどけない瞳が揺れる。
「いいの?碧ちゃん」
その一言で女子生徒――碧は、心羽の少し動揺した様子を理解した。
「うん、もし心羽ちゃんが良かったら是非」
碧の微笑みと共に出てきたその言葉に、心羽は安心した様子で「ありがとう」と返し、吊られて微笑んだ。
碧は心羽の席の方に椅子だけ持って向かい合わせに座る。そして弁当を開きながら話し始めた。
「前から心羽ちゃんと話してみたかったんだ」
「そうなの!?」
碧の言葉に、驚いた心羽が少し前のめりになる。碧は周りのことによく気が配れて、綺麗で気さくな子で、クラスでの人気も高いというのが、心羽から見た印象だったためだ。
「いつもトランペット、綺麗な音色させてるなって思ってたしね」
言ってから碧は箸を取り、「いただきます」を言ってご飯を一口掬う。一方心羽は弁当箱の蓋を開けたところで固まった。
「え…どうしてわかるの?私って…」
「部活の時にプールの方にも吹部の練習聞こえるんだけど、前から綺麗な音色出してる人がいるのは思ってたの。それで、今朝少し早く学校に来たらその音色が聞こえて…」
「まさか…」
「音楽室の方、見てみたら心羽ちゃんが演奏してた」
はにかみながら掬ったご飯を口に入れる碧を見つめ、心羽は呆気に取られていた。まさか見られていたなんて…でも不思議と嫌ではない。
「なんか、気恥ずかしいけど…ありがと。最近変なニュースばっかり起きてるのでさ、ちょっとモヤついちゃって…それで」
物憂げな思いが、不意に表情に出てしまう心羽。それを受けて、碧は少しだけ間を置いてから、ご飯を飲み込みゆっくりこう言った。
「そういうの、大事な時ってあるよね。むしろ、ないがしろにしてないから、必要なことなんだと思う」
そんな考え方もあるのか…そう思うも、このままでは話したばかりの碧を自分の感傷に巻き込んでしまうと考える心羽は、「うん…ありがとう、ごめんね碧ちゃん」としか言えなかった。
そんな彼女の様子を受けて、碧が話を切り替える。
「そういえばこのあと、現社の小テストなんだよね。今はしっかり食べて備えよう。
…食べ過ぎても眠くなるけどね」
「あ…そっか」
心羽がやっと箸を取りだす。
「そだね、ちゃんと食べとかないと」
「そうそう」
碧がそのタイミングを見計らって、互いの部活の話を振ったことを受けて、心羽は少し心が軽くなる。何より、碧がこの少しの間で出会ってすぐの自分をすごく気遣ってくれていたことが、心羽には嬉しかった。
———慧惺高校の150mほど西に位置する、人目につかぬ廃工場。その工場の入り口が開かれる。外の光と共に中に入るスーツ姿の女が一人。この廃工場とでは、見る人がいたならば違和感を抱かせただろう。しかしこの空間にそんな人間はいない。人が寄り付きにくいこの土地は、以前は地元の不良のたまり場の一つだったが、この女の来訪で、それは唐突に終わりを告げた。“能力”を少し使えば造作もないことだった。“彼”からは「別に殺してもいい」とは言われていた。別に“彼女”としてもどちらでもよかったが、いずれにしても地元の人間や、学生たちに広まるのなら、事件にしてしまうこともなかったし、不良たちの口からそれとなく噂として伝聞するだけでも、人払いとしては十分だろう。或いは誰も彼らの口から語られる与太話など信じない——という判断だった。むしろ“彼女”としては、この時振るった“能力”の偉大さに打ち震えた。
——これならあの人の夢見た世界に届く。この不良たちのように、無様に強者だ弱者だとつまらないことで惨めにならずに済む。この底冷えする世界を、変えられる——それは“彼女”にとっての福音だった。しかしその福音もまだ途上。だがこれで手筈は整った。ついに始めてしまうのだ。“彼女”は一つ息を吸い、胸に架かる黒いペンダントの中央の突起に、闇色に光るレリーフの描かれた小さな“種子”をはめ込んだ。ペンダントから黒い霧が煙のように舞い、やがて“彼女”の前で収束する。そこに現れたのは、豹を模した怪物だった。そうして「行きなさい」の一言を受けて怪物が周囲の影に溶け込むように入っていく。怪物が廃工場を出て向かう先は…慧惺高校だった———