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No.3 3/4
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「…マジか…」 不意に、健人の口からその言葉が零れ出た。しかし震える和明の苦悶の顔が現実を知らしめる。それを見つめると、不意に手足が痺れ、息苦しさがこみ上げてくる。あの苦難に塗れた場所に一年も…関わった者の思いは皆、想像を絶するものだろう。だからこそ健人は感情をコントロールせんと努めた。 「…そこまで緊急の状態だったのか?自傷他害の危険性や、家族の同意は?」 現実に耐えてこの話をした和明のためにも、健人は息苦しさに耐え、冷静さを維持してそう聞いた。しかし手足の痺れは止まらない。 「いわゆる…意識混濁っていうのは、最初に俺からも見えたけど、俺や彼女の家族の目には、その手の危険性は見られなかった。だけど家族の同意抜きに、”関係者の判断”であいつは…歩美は今も病院にいる。面会も出来ずにな…」 精神科への入院は、その患者の人権に関わるために医療と法に基づいて厳格に判断するものだ。その判断基準として欠かせない原則には、本人が同意しているかどうかや、精神保健指定医の診察が必要なこと、家族や市町村長の同意、自傷他害の危険性の有無やそれに対する都道府県知事の判断などが重要な要件となる。だが和明の主張ではその要件に見合うものがない。それを聞いた健人には得心がいった。先の行動や推測と、この話は辻褄が合う。同時に和明の目から溢れたその涙は、和明が怪事件に拘り、単独でこれを追ってきた理由を健人に教えた。 「すまない、少しだけ外す」 和明の涙と恋人の歩美、その家族の心中を思い、健人の眉間は深く皺を刻んだ。それと同時に過剰反応としての手足の痺れと息苦しさからくる悪心。それに耐えきれず、健人は遂にそう言った。 「花森…大丈夫か?」 目を赤くしながらも心配する和明の言葉に健人は左手を上げて応じるも、右手を当てられた口にはその悪心がせり上がり、せき込むようにその悪心を吐き始めていた。何もできない、何もしてあげられない。何でそれがこんなにも苦しい…その思いから、そして和明の涙から逃げるように健人は小教室を後にした。 「俺、何してんだ…」 和明が天井を仰ぎ見て一言呟く。健人の強い緊張状態は和明にも見て取れた。しかし泣きたい思いが自身の胸中を支配する中、その一言を絞り出すので精一杯だった。今も病院でどうしているのか分からない歩美へ思いを馳せる。だがこの一年、彼女を助け出す方法を見出すべく怪事件についてひたすらに調べてきたものの、それが雲を掴むような話である現実は変わらない。他人まで巻き込んで、困らせるようなことまで言って…そんな思いで呟かれた一言を聞くものは誰もいなかった。ただ一匹、若干身体が肥大した蟻がその光景に目を光らせていたことを除いて。 「…はあっ、はぁっ…はっ……くそっ…」 健人は小教室から少し離れた階段の踊り場で呼吸を整えるべく座り込んでいた。誰の力にもなれない。そんな思いが胸中を暗くし、視野や認知が狭くなる。自身の思考に絡めとられ、心が沈んでいく。小教室に戻らなければ…しかし呼吸もしにくい中で、脚がそちらに向けられなかった。通りかかる学生たちが怪訝な顔でこちらを見ているが、そんなものに反応する気にもならない。どうすればいい?どうすれば…心中でその言葉が反響する。その時、電話した際の母の声が脳裏に浮かんだ。 「けん…私もどうしたらいいかは、多分わからない。ごめんね…」 先の電話で純子はその結びとして、現実を伝えた。健人の抱えるものが不明瞭である中で、それは純子の誠意故の言葉だと健人は捉えた。直後に純子の言葉は続く。 「でもこれだけは覚えておいて…何があっても、私はけんの味方」 そう語りかけられると共に、心が抱擁されたような思いになった。同時にそれをさせてしまった悔しさに、健人は再度泣きそうになる。だがそんな息子の心に「ただ…」と繋いで、純子は今少し言葉を紡ぐ。 「けんは、けんの味方をして。健人は私の分身…でも健人という一人の人間をやってるのは、あなただけだから」 「…うん」 真っすぐ、自分に向けられた真摯な言葉。健人もまた、その言葉を受け止め、応える。応えながら、ふと思った。やっぱこの人は、”真実”を知ったら今の俺と同じような思いをするだろう。 「健人が健人として、どう生きていくかは…健人が見つけてあげるしかないけど、健人が一人の人間として生きていくそこに、私は一緒にいたいと思ってる」 ただそれは、俺が怪物みたいな身体にでも、そうでなくても同じなんだ。 「健人は今、どうしたい?」 それなら俺がこの人の思いに応えるためにも、やることは決まってる。その時部屋のカーテンの切れ間から、夕日の光が射した。その光に、純子が夕焼けの景色が好きだったことを思い出す。 「今からでも…なれるかな?母さんみたいに。母さんに、安心してもらうためにも」 カーテンを開け、夕焼けの橙に照らされる朝憬市を見つめる。そんな健人の瞳に力が宿り、橙の光を照らし返していた。 「なれるよ、健人は私の分身だから」 その言葉で、健人は覚悟を決めた。 「ありがとう、やれるだけやってみる」 そう伝えると共に、実家には今しばらく帰らない旨を伝えて電話を切った。たとえ元から息苦しい、無力な人間モドキであっても、身体は異形に変わってしまった存在であっても、この心は純子の息子、そして分身として—— 俺は、俺の”人間”を取り戻す——。 そうだ…和明たちの苦しみを全て引き受けることなんてできない。それは花森健人が担えるものでは到底なく、またあくまで和明たち自身が対峙しているものである。そう捉えるのは、花森健人という一人の人間を守るために会得せざるを得なかった技術だった。ただ、和明と手を組んで怪事件に関わる以上、人として彼の抱えるものを無視するわけにはいかない。そしてそれは何より、取り戻すためにも…なら、まずはそれを伝えるのだ。気づいたときには息苦しさも手足の痺れもいくらか収まり、健人は立ち上がることができた。
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