7.家族と回廊

目が覚めると、まず視界に入ってきたのは白い天井だった。まだ微睡んでいたかった。
そんな夢を見ていた気がする。人智を越えた怪物に、二度も出くわした現実などよりも、まだあの光の波、水面の煌めきのような夢を見ていたかった。しかし、右手に感じる温もりが、そうはいかないことを花森健人に知らせる。その温みを辿った先には、母の純子(すみこ)がいた。
「健…!」
「…母さん」
「良かった…」
純子の頬が安堵の涙に濡れる。何を言えばいいのかわからない。ただ、母を泣かせてしまった。
「ごめん」
口を突いて出たのは、謝罪の言葉。幾度となく繰り返してきた言葉だが、自分のために泣いてくれる母に、言わずにいられなかった。
「大丈夫、大丈夫よ」
そう言うと純子は健人の頭を撫でる。瞬間、健人は泣き出していた。二度出くわした命の危機。その時震えることしか出来なかった無力。自分のイメージを象る、自分には知りようもない力。超常に打ちひしがれた、虚勢まみれの心が、母からの熱に解かれていくのを、健人は感じていた。
「怖かった…」
続けて父の徹也が、病室に入ってくる。それまでの不安や心配故にか、肩で息をした徹也の姿からは狼狽と安堵が窺えた。
「健…!」
「親父…あの」
「お父さん」
健人は父に伝えるべき言葉を探していたが、ついぞ何も出てこない。それ故に一瞬視線を落とすも、構わず徹也は息子の肩をそっと叩いた。
「無事で良かった」
「…ありがとう」

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その後、医師の診断では医学的に大きな異常はないという結果だった。最初から常軌を逸した話だ。故にこれは予見できた。何か見つかって人体実験でもされるより、遥かにマシと思う。しかしこれからどうすべきか。健人の胸中には、それが重くのしかかっていた。家族に事の次第を話すにしても、一連の事象はあまりにも常軌を逸している。そのため、目が覚めた翌日には、先に両親の知る情報を先に窺い知るべく、そう切り出した。
「俺、どこで見つかったの?」
「健のアパート近くの並木道…あるでしょう?そこに倒れてたって、警察の方が」
「健人、今聞くべきじゃないかもしれないが…何があった?」
「お父さん、今はーー」
徹也が振った疑問の言葉を、純子が制止する。未だ戸惑う両親二人に、健人は一瞬言葉に詰まるが、程なく出てきた言葉はある意味捻りのないものだと自分で思った。
「通り魔っていうのかな…変な奴に、襲われたんだ」

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退院したのはその三日後のことだった。
両親は「心配だ、一度実家に帰ってはどうか」と健人に働きかけたが、それに応じるわけにはいかなかった。優しい母と心配性な父と居ては、自分は絶対にこの超常現象について話してしまう。しかし話したところで気が触れたか疑われるのが積の山だった。
数日ぶりのアパートの自室は、どこか他人の部屋のように思えたが、そんな感傷に浸るより何より、ベッドに寝転がる。この数日で意識が張りつめていたのだろう、健人はそのまま昏倒するように眠りだした。

次に見たのは、あの水面の煌めきの世界ーー星の回廊だった。
「また、ここか…」
思わずそう呟いた。もう一度見たいとした美しい光景ではあったが、まさか今一度見ることになろうとは。そして、見る限り確認できる人物は、やはり朧気な影になっている自身くらい。
「誰かいない?リュミエ?」
他に居る可能性のある人の名を呼ぶも、返事は帰ってこない。何も説明ないまま本人曰く"力とこの場所は残す"も消えられて。健人は途方に暮れていた。
「ホント、何なんだよ…これ」
左手のブレスレットを睨み、そう独り溢す。
ブレスレットだけは、この空間の中にあっても朧気な影とはならず、その色彩や質感を維持していた。何をどうすればこれまでの日常に戻れるかも、わからない。そんな不安と苛立ちを、ブレスレットにぶつけてしまいたい。だが、脳裏に浮かぶのは自分にこれを与えた少女ーー友達の姿。健人はその想起に細めた目を伏せ、再度ポツリと言った。
「なあ、頼むよ…お前だけが頼りなんだ」

END

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