--- Title: 一神教が必要である理由 Author: yhwhist2023 Web: https://mimemo.io/m/QDXzlaZLXv4Pvwk --- 必要は発明の母と云いますが、自分は、必要は信仰の母であるとも思ってます。哲学者の渡邊二郎氏は、「『必要』ということが、ほとんどの場合、どうどうめぐりをする考えから、私たちを救い出してくれるのである。」(渡邊二郎著『人生の哲学』)と述べておられますが、本当にそうですね。 ひとことで「宗教」と言っても、大雑把に言えば、キリスト教や仏教やイスラム教などの救済宗教(・創唱宗教)と、神道のような自然宗教に分かれると思います。自分は前者の救済宗教を「宗教」と呼んでおり、後者には関心がありません。(救済)宗教にもいろいろありますが、自分は「実体」を信じるタイプ(=一神教)を必要とし、これを生活の柱としております。 脳外科医の浅野孝雄氏が、ETV「こころの時代~宗教・人生~」の「心とは何か 脳科学が解き明かすブッダの世界観」という番組の中で言われたことばがこの質問の回答には適していると思います。 「人間ね、苦しい時の神頼みといいますけれども、一定のもの、変わらないものを人間は必要としているのです。現実生活の必要あるいは自分の心の安定のためには実体…恒久不変な何かを人間は必要としているんです。」 現実は仏教が示しているとおり諸行無常であり無自性空であり、苦と楽のいずれの方が多いかと言えば苦ですが、そのような中で生きることはニヒリズムに陥るので、自分は唯一の実体…すなわち「神」を信じるわけです。「神」以外はすべて常に変転して定まらないと思います。 宗教が人間にとって必要であるか否か…?一概には言えないでしょう。信心は人それぞれでしょう。考古学的あるいは文化人類学的には宗教の発生には必然性があるようですが、宗教なんか必要ではないという人もたくさんおられると思います。自分の場合は必要でした。哲学者のスピノザによると、「実体」とはデカルトが言うとおり要するに「自分自身によってのみ存在するもの…存在するために他のものを必要としないもの」であり、結局それって「絶対」であり「無限」ということで、スピノザはそれを「神」と呼んだわけで、これは従来のユダヤ・キリスト教的「人格神」ではなく、言わば「人格ー非人格」、「対象ー非対象」を超えた何かということになります。「神即自然」とはそういう現実であり、「自然」は「宇宙」とも言い換えられ、ユダヤ系のアインシュタインは、ご自分にとっての神をこのようなスピノザの神だと言いましたね。 スピノザ研究者の國分功一郎氏は次のようにわかりやすく整理して述べておられます。 「スピノザの哲学の出発点にあるのは『神は無限である』という考え方です。無限とはどういうことでしょうか。無限であるとは限界がないということです。ですから、神が無限だとしたら、『ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない』という線が引けないということになります。言い換えれば、神には外部がないということです。というのも、もし神に外部があったとしたら、神は有限になってしまうからです。たとえば私たちは有限です。空間的には身体という限界をもっていますし、時間的には寿命という限界をもっています。神は絶対的な存在であるはずです。ならば、神が無限でないはずがない。そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが『汎神論』と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方です。これはある意味で、世間で考えられている絶対者としての神を逆手にとった論法とも言えます。誰もが神を絶対者と考えている、ならば、それは無限であろうから、すべては神の中にあることになるだろう、というわけです。すべてが神の中にあり、神はすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを『神即自然』と言います」(國分功一郎著『はじめてのスピノザ』講談社現代新書 p35~) この國分氏の解説は、伝統的キリスト教の神学の前提を根本的に批判するものです。それはアウグスティヌス以来、神の創造の業を外へと向けられた神の働き(operatio Dei ad extra, opus trinitatis ad extra, actio Dei externa)と説いてきたことや、神を絶対者であると言いながら、必然的に導き出される神の無限(=遍在)性とは反対の聖書神話における有限で相対的な擬人的神観ないしは有神論を、整合性無視で語ってきたということの指摘です。但し、スピノザの「神即自然」について一般的に云われている「汎神論」(Pantheism)という言い方には疑問であり、すくなくとも日本における多神教やアニミズムなどとの関連において云われる「汎神論」とは意味が異なるのではないかなと思います。自分はむしろ「汎在神論」(Panentheism)と言う方が適しているのではないかと思い、その旨、一部の研究者には伝えたことがあります。 ということで私は、自分の人生において宗教…すなわち「神」との関係を必要としていることを自覚しており、その「神」は本来、スピノザが示した意味での「神」だと思っています。これは西田哲学においては「絶対無」と表現されます。西田氏によれば、絶対無としての真の絶対有は「無限に自己自身を限定する」ことによって「無限に創造的でなければならない」(~「『場所的論理と宗教的世界観』西田幾多郎全集第十一巻」岩波書店 p400)ということで、その「自己限定」が「啓示」としての自己対象化であり(…対象化されなければ人間によって認識されないから)、ユダや・キリスト教ではそれが聖書の神話において、神が創造と摂理の主として人格的存在のかたちで物語られているということになります。 元・東京神学大学の学長であられた大木英夫牧師が、「神認識とは、対象化されない神がみずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」と述べておられるとおりです(『人類の知的遺産 72 バルト』講談社 p228~229)。 だから「人格神」は本来の神が物語られるうえでの形態にすぎず、これを実相とみなして批判するのは誤解なのです。よく見られる、愛にして公義なる神が創造した世界に何故、かくも悪しき出来事が生じるのか…?といったいわゆる神義論的問いが生じる理由は、本来の神と聖書の人格神とを混同していることによります。 ちなみに、哲学者でキリスト者でもあられた量義治氏は次のように述べておられます。ここで「絶対者」と言われているのが私にとっての「神」です。 「宗教の中心問題は救済の問題である。そして、救済は絶対者による救済である。こうして救済論からして絶対者論が必要となった。われわれは絶対者を絶対有にして絶対無としてとらえた。すなわち、絶対者は単なる絶対有でも絶対無でもなく、また、絶対無にして絶対有でもなくて、絶対有にして絶対無としてとらえた。しかし、このような絶対者の把握は肝心の救済とどのように関わるのであろうか。もしもわれわれの把握が救済と切実な関わりを持たないとしたならば、それは形而上学の問題としては意義があっても、宗教の問題としては意義を持ちえず、したがってわれわれとしても、関心を持つ必要もないであろう。しかしながら、われわれの絶対者把握は救済の問題と深刻に関わるのである。」(量義治著『宗教哲学入門』講談社学術文庫 p236)