0 つ厨二病が転生したら移植用 みんなに公開

序章 十話までに終わらせる。ガチダークな感じで。
主人公 田舎のとある街 帽子を被って人として生きる 七歳ごろ バレる。母サキュバス 磔刑 村の一人ずつ家を回って斧で惨殺。後に逃亡→第一
十三歳頃 とある山に流れ着く イノシシ用の罠に掛かる 藻掻くが逃げられん 夕方頃 諦めかけた時 おんなノコくる 悪魔を知らない少女に助けてもらう。
無理やり連行 足の怪我もあり、まともに逃げられない。女の子の良心、怪我で主人公を保護。→二
半年。この辺は充実したスローライフを。→三
さらに一年。女の子が村に遊びに行って、父と主人公を自慢。ソレを知った父、母激怒。主人公宥めるも、女の子家出。→四
女の子、俯いて小陰、魔物遭遇、覚えたての魔法で善戦するも、押さえつけられ、主人公参上魔物殺し、女の子から思いを寄せられる。→五
女の子の自慢が街中に広がり、騒ぎ。家に悪魔狩り。なんとか隠れきるも、ここにいてはきけんだと、主人公は家を出る。→六
2年後、雨ヤバい。なんかへんな悪寒。空を飛んでた。天候を司る天使、ウェザエル。天使、悪魔嫌い。殺しにかかる。主人公魔法で応戦も歯が立たず、逃走。息を潜めてなんとか、天使たちの目的を聞いた主人公。天使と戦うことに。→七、八
1年後街を放浪中、同い年くらいの黒髪。糸杉参戦。利害の一致で一時的にタッグ。仲悪く。→九
協力して戦い、仲良く&同行→十

1

セミがなく夏の昼下がり。入道雲が道の端に影を落とし、去っていく夏の太陽の下。

白い光の中を揺れるのは、美しい母の姿だった。母は白いワンピースをまとって、つばの大きな帽子を被って、揺れていた。

そして、少年は愛おしいたった一人の母の手を、たった一人の肉親の手を、力強く握っていた。そんな少年もまた、つばの広い帽子を深く、深く被っていた。

「アレス。今晩は、何を食べたい?」

母は少年の名を呼び、言った。アレスと呼ばれた少年は、帽子のつばが作った陰に顔を沈めて、考えた。

「……僕、決められない……。だから……お母さんが決めていいよ」

少年はそう、口にした。

少年は母の料理が本当に、本当に大好きだった。だから、母の料理が食べられるのなら、なんでもいいと思った。

少年がそう口にしたのは、そんな理由。

そして理由は、もう一つ。

少年は単純に、そうすることが好きだったのだ。

「今日、母は何を作ってくれるんだろう……」「今夜、母はどんな物を食べさせてくれるんだろう……」

少年はそう考えて、ただ単にワクワクすることが好きだった。

「……そうね」

母は少年の言葉にそう漏らし、帽子のつばから覗くずっと、ずっと青い空を、静かに見上げた。

少年はそんな母を見て、同じように青い空を見上げてみた。

この、どこまでも広がる無限の青は、きっとどんな名画よりも綺麗で、美しいだろう。少年にとって、その空はそんな風に映った。

母と見上げた空の色、雲の形。母と感じた風の風味に、土の香り。少年は、そんな素晴らしいものを見上げて、感じて、心の底から幸せだ……と。そう思った。

けれど、少年にとってのそんな空は、母にとってのそれとは違ったのかもしれない。

だって少年が見た母の背中は、どこか小さいような気がして、とても自分と同じことを思っているようには、とてもそんな風には見えなかったから。

少年は思う。母にはこの空が、一体何に見えているんだろう……と。

「それじゃあ……今日は……」

少年がそうしていると、母は言い出した。

「やめて!!」

そして少年は、咄嗟に割って入った。母は割って入った少年の声に驚き、青い空から目を逸らす。だけど、そんな母の瞳にあったのは、驚きだけじゃなかったような気がする。

「……ど、どうしたの?」

母は少年に訊いた。声色にはほんの少しだけ、動揺が混じっていた。少年はそんな母を少し心配に思いながらも目を合わせ、頬を膨らませ、答えた。

「お料理は晩ごはんまでのお楽しみにするの!! だから言っちゃダメ!!」

母は少年の、年相応な小さなわがままの言葉を聞き、安堵を浮かべた。少年はそんな母の様子を見て少し不思議に思ったが、相も変わらず、母に向かって頬を膨らませていた。

「……そう……そうよね……。……わかったわ。じゃあ、夜が来るまで……楽しみにしていてね」

母は何かをふと思い出したかのような反応をしつつしゃがみ、少年に向かって自らの小指を差し出した。

「うん! 夜まで……楽しみにしてるね!」

少年はワクワクで胸をいっぱいにして、母と小指を交わした。しゃがみ込んだ母は穏やかにはにかみ、少年を一度抱きしめた。

「さあ、行きましょう? 家まではまだ長いわよ」

「うん! お母さん!」

母は少年の手を引いて行く。土の道を照らす太陽はどんどん傾き、やがて地平線の向こうに潜り込もうとする。その頃、少年は母と共に、町外れの小さな家に辿り着いた。

扉が唸り、ゆっくりと開く。扉から入る光が二人の影を、向こう側の壁まで長く伸ばしていった。

『ファイア……』

母は指を立て、魔法の言葉を唱えた。すると指先に炎の玉が、小さな渦を巻いて現れた。

母は部屋に置かれたランプに火を灯し、暗かった室内に光を満たしていった。そんな母を、少年は不満げな眼差しで見つめた。

「ねえお母さん……」

少年は母に話しかけた。

「なに?」

母は答えた。

「どうして、僕らは外で帽子を取っちゃダメなの? 他のみんなは取ってたし、僕暑かったよ? それに、どうして僕は他の子と遊んじゃダメなの?」

少年は母に不満を叫んだ。

少年はこの屋敷に帰り着くまで、楽しそうに遊ぶ子どもを何度か見てきた。

ずるい。

少年はそう思った。彼は他の子どもたちと一緒に遊びたかったのだ。だけど、母は理由も言わずにそれを禁止し、遊ばせてくれなかった。

少年はそれが不満で、不満で、ならなかった。

「帽子を取っちゃ駄目なのは……そうね……。……太陽の強い光から、自分の体を守るためよ」

「雨の日も被らされてる……」

「それは雨を避けるため。帽子を被ってれば、濡れるのは帽子だけで済むわ」

「曇りの日もだよ? 太陽もないし、雨もないのに……おかしいよ?」

「それは……それはね……? ……んーと……。……あ……曇りの日には空から鳥の大きな魔物が狙ってくるからよ。だから食べられないように、帽子を被って身を守るの」

「本当に……?」

「うん。本当よ」

少年は納得いかなかった。だって太陽の光は母が言うほど強くなかったし、雨だって帽子よりも傘を差した方がいいに決まってる。それに、鳥の魔物なんか曇りの日でもそれ以外でも、一度も見たことがなかったから。

だけど少年には、それ以上に納得いかないことが、一つだけあった。

「……でも……どうして他の子と遊んじゃいけないの? なんで僕だけ? それ……おかしいよ」

少年は泣きそうな声で、俯いて言った。母はそんな少年の様子を見て、声を聞いて、少し心を痛めた。

「……ごめんね」

母は、無意識の内に謝っていた。溜まりに溜まってはち切れそうなくらいの申し訳ない気持ちが、この瞬間に少しだけ漏れ出した。

「……アレスは周りと違うの。特別なの。だから周りの子と、遊んじゃ駄目」

周りと違う。特別。少年は母のそんな言葉に、一つだけ心当たりがあった。

「……これのせい?」

少年は頭に手を触れた。そこには固くて小さな、突起物があった。

「ねえ、どうなの? これのせいなの?」

少年は重ねて訊いた。しかし母はそんな声に、言葉を返してはくれなかった。でも、ただ一言。

「ごめんね……」

と。そうとだけ呟いた。

「ねえ、謝ってばっかりじゃわかんないよ。どうして僕は、外で他の子と遊んじゃ駄目なの?」

少年の言葉が静寂を引き裂く。母はいつにもなく暗い背中で俯き、苦い表情を滲ませて考えた。そして母は、決心を固める。

「……あなたが……あなたが私にとって……何よりも、何よりも……本当に、本当に大切な人だから……」

「大切な人……?」

少年は首を傾げ、疑問を浮かべた。

「お母さんの大切な人だと、他の子と遊んじゃ駄目なの?」

そんな言葉を皮切りに、部屋に沈黙が流れた。母の背中は小さく、小刻みに震えていて、少年の目にはそんな母が、とても小さく映った。

「ごめん……。本当に……本当にごめんね……」

そんな母の謝罪の声は泣いていた。どうして泣いているのか、少年にはちっともわからなかったが、母の何かを傷つけてしまったということだけ、それだけは理解できていた。

少年は大好きな母を傷つけてしまったんだ……と、泣きそうになった。そんな時だった。

――パチン……。

母が手を叩いた。そして。

「さあ! 切り替えて行きましょう! アレスちゃん、今晩のご飯は何なのか、楽しみに待ってくれていたわよね! 作ってるところ見せてあげるから、当ててみなさい!」

と。そう言った。

母から吐き出された気丈な言葉は、明らかに苦し紛れだった。泣きそうなことが、少年のような小さな子供にさえわかってしまうほど、あからさまに取り繕われた物だった。

だけど少年には、やるせなくもどうすることもできなかった。

「……うん」

こう答える他……なかった。

母はかまどに小さな鍋を置き、火を点けた。鍋には魔法で水を注ぎ、大きめに刻んだ肉を入れた。

次に母は玉ねぎの皮を剥き始めた。

「……お母さん……。僕もやるよ……」

少年はやるせなさから、そう申し出た。

「そう、じゃあお願いするわね」

母の声は、もういつも通りに戻っていた。もう苦し紛れじゃなかった。もう取り繕っていなかった。少し気持ちが前向きになった少年は。

「うん!」

強く、大きく頷いた。

拙い手つきで、少年は玉ねぎの薄皮を剥いていく。汁が目に入ったせいか、目に少し涙が滲んできた。少年は涙を拭って手の甲を湿し、残りの玉ねぎの皮に指を掛けた。

「お母さん。できたよ」

皮を剥き終えた少年は目に走る軽い痛みと滲む涙を堪え、拭いつつ、皮が剥けて艷やかな黄緑色になった玉ねぎを手渡した。

「ありがとうね」

母は玉ねぎをまな板の上に置き、刃を通した。切れ味が悪いみたいで、断面はあまりきれいじゃなかった。そして玉ねぎの汁は母にも牙を剥いたみたいで、母は玉ねぎを刻んでいる途中、何度か煩わしげに目を擦っていた。

母は刻み終えた玉ねぎを鍋に入れて蓋を閉じ、少年に訊いた。

「さあ、何の料理か、わかった?」

「うん!!」

少年は頷いた。

「シチューだよね! お母さん!」

少年が大きな声で言うと、母ははにかんだ笑顔で答えた。

「正解!」

少年は母とそんな言葉を交わし、席についた。しばらくは体を揺らして、ご機嫌にシチューが机に敷かれたマットの上にくるのを待っていた。だんだんと、部屋に、美味しそうな匂いが立ち込めてきた。

母がシチューの蓋を開けた。湯気が天井まで一気に昇り、空気に馴染むように消えていった。母がスプーンを手に取り、味見をする。

「お母さん! できたー?」

「うん。できたわよ。今行くわね」

母が小さな鍋を持ち、机に向かって歩いた。少年は机の下で足を揺らし、その到着を心待ちにした。

敷かれたマットの上に鍋が置かれた。少年は目を輝かせて、鍋の中を覗き込んだ。温かい湯気が鼻の中を、喉の奥を湿す。

具材は肉と玉ねぎ。たったそれだけ。彩りもないし、味付けだって塩がほんの少しだけだった。だけど少年の目にはそんなシチューが、本当に美味しそうに映った。だってそのシチューには、母の愛情が籠もっているような気がしたから。

少年がそうしている間にも、母は台所の戸棚から木のボウルを二つ、コップを二つ持って机に近づいた。

それに気がついた少年は椅子から飛び降り、戸棚に走った。軽く跳ね、素早くスプーン二つとレードルをその手に握った。そして今度は、戸棚に向かって走った道を、そのまま引き返した。

少年は母にレードルを渡した。

「ありがとう」

母は少年からレードルを受け取り、木のボウルにシチューを流し込み始めた。そんな中、少年は椅子に飛び乗ってバランスを崩したりもしつつ、机の上に二人分のスプーンを並べた。

少年が再び席につき、ほぼ同時に母も席についた。

「いただきます!!」

「はい。いただきます」

少年は元気よく、母は落ち着いた声でそう言った。

少年はシチューを啜る。口の中には質素ながらも素敵な薄っすらとした塩の風味と、玉ねぎの優しい甘みが広がった。

少年は肉を食む。薄かったけれど塩味が滲みていて、美味しかった。

少年は次から次へとシチューを口に運んだ。すると、あれよあれよという間に、鍋は空になってしまった。

「……もうない……」

少年は残念そうに呟いた。

「ねえお母さん。また作れない?」

「……そうね……。明日になったら、また一緒に作ろうね」

「明日……」

少年は楽しみに呟いた。その途端、少年からあくびが漏れる。

「お母さん、僕、今日はもう寝るね」

「……うん。おやすみなさい」

母は食器を洗いながら、そう返した。

「おやすみなさーい」

少年は眠たくなって更にあくびをした。目から少し、涙が滲んだ。

少年は背伸びをして扉を開け、ベッドに急いだ。少年の足を急かしたのは早く寝たいという気持ちが半分、それと、明日が楽しみな気持ち半分だった。

少年は掛け布団を捲り、そこへ潜り込んで暗い夜の天井を見上げた。少年はそのまま、夜闇に溶けるように目を閉じた。そっとそっと、明日に思いを馳せるように、目を閉じた。

……。

……。

――ピピピ……。

そして少年が目を覚ました。寝起きの少年は目をこすり、自分を起こした窓際の小鳥に目をやった。茶色い小さな鳥だった。少年は鳥に手を伸ばす。

あとちょっと。もう少しで触れられる。そんな時、鳥は羽ばたき、淡い朝霧の向こうへと消えていった。

「アレス? ごはんよー?」

「あ! はーい! お母さん!!」

少年はベッドから飛び降り、昨晩のように背伸びして扉を開けた。母が包丁でまな板を叩く音が聞こえる。机の上には皿が二つ並べられていた。

少年は、今朝のご飯はなんだろう、というワクワクに胸を膨らませながら、机に駆け寄った。椅子を引いて、その上によじ登った。

目玉焼きだった。下にはベーコンが敷かれていた。皿の縁には葉野菜が、彩りとして添えられていた。

「お母さん! 食べてもいい!?」

少年は待ちきれず、訊いた。

「ええ。いいわよ」

少年はその言葉を聞くなり、すぐにスプーンを手に取った。黄身と白身をスプーンの先で切り分け、白身から先に口に放り込む。黄身は最後のお楽しみ。

一分と少し経って、少年は白身を平らげた。そして少年は、黄身に向かってスプーンを向けた。切って食べたりはしない。トロトロとした中身が溢れると勿体ないし、食器洗いも少し大変になるから。

少年は黄身を口に入れた。半熟のトロトロが、口いっぱいに広がった。少年はそんな黄身の風味を楽しみながら、一度、二度、と分けて、黄身のトロトロを飲み込んだ。

最後に葉野菜を放り込んで口直し。後に水で流し込んだ。

少年はコップを皿の上に重ね、台所へと運んだ。そして母へと目をやった。母はもう半分くらい食べていた。多分、あと少しで食べ終わるだろう。

それからしばらくして母も朝食を食べ終わり、台所へ皿を運んできた。母は魔法で出した水を使い、皿を洗浄する。少年は洗い終わった皿を拭き、足場を使って戸棚へと戻した。

皿を片付け終えた二人は、次に掃除を始めた。少年は背伸びをしながら埃をはたき落とす。母はそうして床に落ちた埃を回収し、窓から外に捨てた。

「お母さん、まだ?」

とある棚の埃をはたき終わった少年は部屋を見渡し、はたき残しがないか確認した後、母に言った。

「もう少しだけ待ってちょうだいね」

「……早くしてね」

母の答えを聞いた少年は、残念そうに言った。

なぜか。それは少年が母との買い出しを、何より、誰よりも日々の楽しみにしているからだ。

そんな日々の楽しみが、ほんの少しであっても延期されてしまった。少年にとってそのことは、この上なく……とまではいかずとも、かなり残念なことだった。

少年は待った。窓から外の景色を見て、待った。玄関から、母がほうきでゴミをはく音がきこえる。

鳥が、青い空に細い線を引っ張るように飛んでいた。白い、小さな鳥だった。

そんな自由に飛ぶ鳥を見て少年は、いつか自分にもあんなふうに空を飛べるんじゃないかな、と。そんな気がした。

気がした、というよりは、確信に近かったかもしれない。どうしてか、羽ばたけば飛べるような気がしたのだった。

鳥が屋根の縁の向こう側に隠れ、消えた。それと時を同じくして、母が鳴らしていたほうきの音も止んだ。

「ねえお母さん。お掃除終わった?」

「うん。終わったわ」

その言葉を聞き、少年は目を輝かせる。

「やった! じゃあさじゃあさ。今日も行こうよ! お買い物!」

「うん。いいわよ。じゃあ、お買い物に行く準備をしましょうね」

少年は満面の笑みを浮かべて。

「はい!! 行ってきます!」

元気よく返事をした。

少年が走り出す。母は財布を取り、昨日と同じ白い帽子をかぶった。大きな籠を持ち、スカートを軽くはたいた。

「お母さん! 準備できたよ!」

少年が母に駆け寄り、言った。しかし、母はそんな少年の声に首を横に振った。

そして少年の頭に、深く、深く帽子を被せ。

「うん。これで完ぺきよ」

そう言って、母は微笑んで見せた。しかし、それとは対照的に少年は不満げだった。

しばらくして家の扉が開き、そこから元気よく少年が駆け出した。さっきまでの不満げな顔なんて、もうウソみたいだった。

少年は庭先の戸まで走り、跳びはねて母の方へ振り返る。そして手を振り。

「お母さーん! はーやーくー!!」

母に叫んだ。

「はいはい。そんなに急がなくても大丈夫よ」

母はそう言いながら少年の所へ向かい、戸を開けた。

少年は母のワンピースのスカートを握り、母と並んで、戸の外へ踏み出した。

雲の影が作る並木を通り、少年は母と歩いた。

「見て! あの雲、お魚みたいな形をしてるよ!」

少年は空に浮かぶ雲の一つを指さした。

「うん。そうね」

母は静かに微笑んで言葉を返し、歩き続けた。そして数十分歩き、ようやく街の端が見えてきた……そんな時だった。

少年の目に、露店の、赤い表紙のとある本がはたと止まった。少年は、その本のことが気になって、吸い寄せられるかのように母のスカートから手を放した。

「あ! ちょ、ちょっとアレス!? どこ行くの!?」

母が少年を呼び止めた。それからしばらくして、少年は露店の前で立ち止まった。

露天には年うつらうつらとした老いた老女が座っていた。

「ちょっとアレス……。いきなり駆け出したりしてどうしたの? さあ、早く先に行きましょう?」

少年に追いついた母が困ったように言ったが、少年には届いていないようだった。

「ねぇおばさん……」

少年が露店の老女に声をかけた。しかし、老女はまだ目をつむり、うつらうつらとしていた。

「おばさん!!」

少年が始めよりいくらか大きく言うと、老女はゆっくりだったが、やっと目を開けた。

「おやぁ? 子どもかい? 珍しいお客だねぇ……」

老女は気味の悪い笑みを浮かべ、言った。少年は、ほんの少しだけ息を詰まらせながらも、老女に対して言葉を吐く。

「ねぇこれ……」

少年は赤い表紙の本を指さした。すると母はどうしてか、見て取れてしまうほどの嫌悪感を顕にした。

「これっていくら? 僕、これ欲しい……」

そう言ってその本に手を伸ばそうとした少年の肩を、母は強く制止した。

「……? お母さん? どうしたの?」

少年は母のことを見上げた。白い帽子の下、見上げた母の表情は、なぜかとても引き攣っていた。まるで、心のなかで何かと戦ってるみたいだった。

そんな母を見て、少年は不安を感じた。もしかしたら、僕が言ったこと、実はまずかったんじゃないだろうか……。僕がやったこと、実は良くないことだったんじゃないだろうか……、と。

母が黙れば黙るほど、少年の不安は増していった。そしてその不安が臨界に達しかけた頃、母が遂に言葉を発した。

「……ご、ごめんなさいね。この子ったら、本を買うお金なんてどこにもないっていうのに、急に走り出しちゃって……さあ、行くわよ。アレス……」

「う、うん……」

声は普段通りの母の声だった。しかし、その顔は未だに嫌悪感がうっすらと滲んでいた。

少年はよく分からなかったが、自分が何か母にとってよくないことをしてしまったのだということだけはわかった。

お母さん……ごめん……。

だから、少年はそう言おうと思って、口を開きかけた。そんな時だった。

「ケケケ……」

そして。

「いやぁ……仲がいいねぇ……。なんだか、ものすごくいいものを見せてもらった気がするよ……ケケケ……」

老女は不気味に言った。

「……行きましょうアレス」

母は少年の手を取りながら言った。

「う、うん……」

不気味さに追い立てられるように、二人は歩き出した。

「お待ち……」

老女がその場を去る二人に対して声をかけた。少年は母に、無視しても大丈夫なのか、と視線を送ったけど、母は無反応だった。しかし老女は言葉を続ける。

「この本……格安で売ってやるよ……。それなら、あんたも買えるはずだ……」

そんな誘いを聞いて、少年は立ち止まった。そして、少年と手で結ばれていた母も連鎖的に。

そうして立ち止まった二人に向かって、老女は揺らり揺らりと歩み寄る。手の届く範囲まで寄った後、少年の手に本を握らせた。

「わたしゃつい昨日有り金が全部尽きちまってね……。安くても金を手に入れなけりゃ、今日を食い繋げなくて死んじまうのさ……。ケケケ……」

相変わらず不気味な笑い声……。しかし、少年は自身の手の中にある本を、そんな笑い声も聞こえなくなるほどにまで食い入るように見ていた。

『勇者の伝説』

それが少年が手にした、この本のタイトルだ。陳腐で、そこかしこに転がる小石のようにありふれたタイトル。しかし、少年にはそれが、とても魅力的に見えていた。

「おっと……!」

老女がそう言って、少年の手から本を取り上げた。

「あっ!」

少年は咄嗟に手を伸ばしたが、それが本に届くことはなかった。

「か、返してよ! おばさんが僕に渡したんじゃないか!」

「渡しはしたが、プレゼントしてはいないのさ。この本がほしいなら、坊やのお母さんにお金を出してもらいな……!」

老女はかすれた声でそう言う。

「え? で、でも……」

少年は母を見上げた。すると、帽子の上に母の手が降りてきた。

「わかりました……。買います。いくらですか?」

母は声こそ普段通りでいつもの優しい母だった。しかしその表情はというと、とても普段の母には見えなかった。

母の表情。それは貼り付けた笑顔の裏に、得体の知れない黒い感情が見え隠れしているかのような、そんな表情だった。

「ケケケ……そう言ってくれて、あたしゃ嬉しいよ……。いくら……そうか、値段ねぇ……。30ウェンくらいでどうだい? ケケケ……」

「わかりました。払います」

「ケケ……ありがとうねぇ……」

母はさっと10ウェン硬貨を三枚老女に渡した。そして老女は、ゆったりとした動きで手のひらの上の小銭三枚を数えた。

数え終えると老女は腰を丸めて、少年に本を手渡した。

「大切に読むんだよ……」

「う、うん。ありがとう。おばさん……」

少年は静かにお礼を言った。

「……いくわよ。アレス……」

「はい。お母さん……」

少年は母に腕を引かれて、ついていく。本はしっかりと、少年が脇に抱えていた。

少年は嬉しさと申し訳なさが半々で入り混じったような複雑な気持ちで、母を見上げた。本を買ってもらえたことは嬉しかったけど……。

「……お母さん」

「……どうしたの? アレス」

少年は少し下方向へ目をそらし、表情に影を落とす。その影には、母への申し訳なさが充満していた。

「えっと……ごめんなさい……」

少年は謝った。母は多分、この本に対していい思いを抱いていなかったと思ったから、少年は申し訳なさでいっぱいになりながら謝った。

「……えぇ。大丈夫よ。私は……私はね? アレスが喜んでくれさえすれば嬉しいの。笑ってくれれば嬉しいのよ。……うん。だからね。これからもそうして笑っていてちょうだいね?」

母はそう言葉を返した。

少年は自らが脇に抱えている本を見つめた。なんだか複雑な気持ちだったけれど、母は喜んでくれさえすれば、笑っててくれさえすれば嬉しい、と言ってくれた。

心の隅に申し訳なさを残しながらも少年は母の言葉がすごく嬉しくて、口の端から少し笑みを漏らしてしまった。

「うん。お母さんありがとう……」

少年は心のそこから、母に伝えた。

「……えぇ」

母はまっすぐ前を向いていた。

「……さあ、急ぎましょう。太陽が沈む前に帰らないとね……」

「うん! お母さん!」

少年は両手で本をぎゅっと抱えて、はにかんだように笑った。そして母も、表情では笑っていた。表情では……笑っていた。

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かつて彼の神々の地は、強大なる魔のものに侵されていた。魔のものは次々と街を喰い、大地を蝕み、人を誑かし、取り込んだ。

人々は神々の力を借り、抵抗したが、魔の者共は強大であった。人々は抵抗虚しく次々と食われ、飲み込まれ、魔のものに取り込まれていった。

いつしか人々は魔のものに屈し、ひれ伏し、追い詰められていった。

神々は人々の戦いに加わり、魔のものと共に戦った。だが神々は下界ではうまく力を発揮することができず、それでも魔のものたちの侵略を完全に止めるには至らなかった。

そんな時、神々はついに地上に彼の使徒を遣わした。神々の力を賜った『勇者』と呼ばれしその使徒は、またたく間に魔のものを追い返し始めた。

勇者の力は凄まじく、太刀一振りで幾千もの魔のものを葬り去り、老いず、強大な魔のものであっても彼の体に傷をつけることは叶わなかった。

勇者は次々と街を取り返し、人々を解放していった。人々は勇者に感謝し、彼を下界に遣わした神々を賛美した。

そして勇者は数年間戦い続け、魔の者共の王、『魔王』が巣食う根城に辿り着いた。魔王は今まで勇者が戦った魔のものとは比べ物にならないほど強く、勇者に対して初めて傷を追わせた。

だが、それだけだった。勇者は魔王よりも限りなく強く、ものの数分で魔王を打ち砕いてみせた。

それ以降、指導者を失った魔の者共は統率を乱し、世界各地に散り散りになった。

勇者は世界中に赴き、魔の者共を倒し続けた。勇者は下界を救うために奮戦し、世界中にその逸話を残した。

しかし、そんな勇者はいつしか自らの力に溺れ、飲み込まれ、ついには彼に力を与えた神々に叛逆した。

勇者の力はすでに神々では押さえつけられぬほど強大であった。神々は次々と敗れ、下界の殆どの土地は勇者の物となっていった。

いつしか、勇者は自身の軍団として生き残った魔族の軍勢を率い始めた。もはやその様子は勇者などではなく、神々に反逆せし第二の魔王のようだった。

第二の魔王はついに下界の全てを占領した。人々は第二の魔王の、魔のもの達の圧政に苦しみ、神々に祈ることさえも禁じられた。

第二の魔王は、下界で着実に力をつけ、ついには天界に侵攻した。天界の神々は地上にあった時より数倍も強く、第二の魔王も苦戦を強いられた。

しかし、第二の魔王はその圧倒的な力と卑怯な策略によって次々と神を滅ぼし、さらなる力を得ていった。

下界の信仰は絶たれ、長きにわたる戦いにおいて神々は疲弊していた。下界に並び、天界までもが第二の魔王の手に堕ちるのも時間の問題だった。

そんな時、我らが主なる神『最高神』が第二の魔王の前に立ちはだかった。

最高神の力は圧倒的で、深手を負わされた第二の魔王は下界まで逃走せざるを得なかった。

最高神は天界からは離れられない。故に最高神は自らの側近にあたる神々を下界に遣わした。

下界では神々は力の大半を失う。だからか、第二の魔王を世界から完全に消し去ることは叶わなかった。

だが、最高神による傷が未だ癒えていない第二の魔王を封印することなど、神々にとっては容易いものだった。

こうして魔のもの共は再び散り散りになった。そして人々は第二の魔王の圧政から解放され、再び神々への信仰と信じることで得られる自由を再び手にした。

だが、未だ脅威が完全に消えたわけではない。魔の者共は世界に溶け込み、今も生きている。魔の者共『魔族』は絶対的な悪であり、人類の大敵である。

見つけ次第、すぐに殺さねば、再び人類の信仰は魔族に侵される。

そして魔族がこの世界から一匹残らず駆逐されるまで、憎き魔族共に奪われた真の『信仰』と『信じることで得られる自由』は戻ってこない。

我々人類は戦わなくてはならない。信仰と自由のために、憎き魔族を駆逐するまでは、この世界に平和は訪れないのだから。

・□◆□・□◆□・□◆□・□◆□・□◆□・

……少年が、母に赤い表紙の本を買ってもらってから、すでに二年半あまりの時間が過ぎた。少年は七歳を迎え、背も伸びた。

あの日以来、少年は毎日のようにこの本を読みふけっていた。他にやることがないから、というのもあるだろう。だが、一番の理由はこの本のことが好きだからだ。

単なる英雄譚ではなく、勇者の裏切りや闇堕ちなどの要素が含まれた平坦でない物語が少年を夢中にして、この本のことを好きにさせていた。

ただいくつか嫌いなところもあった。例えば、神に敵対する者を一方的に悪と決めつけたり……とか……。

少年にはうまく言語化できなかったけど、なんだかこの話は一方的な感じがして、少年は少し違和感を覚えたこともあった。

少年は読み終えた赤い表紙の本を閉じ、空を見上げた。真上は晴れていたけどずっと遠くには黒い雲が立ち込めていて、ゆっくりとこっちに向かってきているような気がした。

「一雨来るのかなぁ……」

少年は遠くの雲を見て、ボソリと呟いた。

雨の前触れだろうか。冷たいそよ風が足の間を通り、草を揺らして吹き抜けて去っていった。そんな時だった。

カサカサ、と。庭の植え込みから何かが這ったかのような音がした。

「……誰か居るの?」

少年は内心ビクつきながら、茂みに向かって話しかけた。カサカサという音が、次第に大きくなる。そのうち地面の小枝を踏み折るような音も聞こえてきて、ついには植え込みの葉までもが揺らされ始めた。

少年の腹の奥に、だんだんと恐怖が込み上げてきた。もし、茂みから飛び出してきたモノに襲われたりしてしまったらどうしよう……。そう考えると身一つではどうしても不安だった。

少年はあたりを少し見渡し、すぐそこの草の上に転がっていた木の枝を手に取った。

少年は棒の先を揺れる植え込みの葉に向けて構え、顔の前には本を構えた。茂みから何かが飛びかかって来ても棒で攻撃できるように、本で防御できるように。

植え込みの葉の揺れが、どんどん激しくなっていった。そろそろ出てくる。そう思った少年は息を呑み、茂みを睨んだ。

それから数秒も経たないうちに植え込みが大きく揺れた。少年は怖がって、思わず目を瞑った。

それからほんの少し、少年は右目だけを薄っすらと開いて、揺れていた茂みを見た。

「女の子……?」

そこには、茶色い髪の少女が頭を覗かせていた。少年は本と木の枝を下げ、少女を見下ろした。

「……あれ? あなた誰? 見慣れないわね。……この村の子?」

そう言った後、ガサガサと音を立てて少女は茂みから這い出した。

少女は緑色のシャツを着ていて、更にその上からベージュのサロペットを身につけていた。目は緑で、見た目からして自分と同じくらいだな、と少年は思った。

「……ちょっとダイジョブ?」

少女は自分のことを眺めるばかりで質問に答えない少年を見て、少し腹を立てながら少年に言葉を投げつけた。

「あ。あぁ……うん……」

少年は静かに頷き。

「ぼ、僕はこの村に住んでるよ。多分、生まれた時から……」

言った。

「へぇー。そうなんだ。じゃあ、友達になりましょう!?」

「え?」

少年は少女の距離の詰め方が急すぎてついていけずにいた。

「何……? 嫌なの……?」

「いや! 全然、嫌なんかじゃないよ……! ……何なら、嬉しいくらいだし……」

「なんだ。嬉しいんだ。良かった。じゃあ、もうこれからは私達、友達ね!」

「あ……う、うん……」

少年は少女の勢いに押されるようにして頷いた。

「よし、そうと決まれば、おしゃべりしましょう? お互いの理解を深めないと、友達とは言えないからね!」

少女は家の外壁を背もたれとして、地面の草に腰掛けた。そして、早く来いとでもいうかのように、僕に向かって隣の地面の草を叩いてみせた。

少年は少女の隣に腰掛けた。

「あのさ……。ほんとにこんなところで僕なんかと話してていいの?」

「えぇ。いいわよ。かくれんぼだし、どうせ草の中でじっとしてるだけなんだもの。こっちの方が面白いわよ」

「そ、そう……」

少年が黙り込み、庭に一瞬の沈黙が走る。

「……ねえ、お名前は?」

少女が少年に訊いた。

「僕? 僕……あ、アレスって……いうんだ……」

「へー。アレスね。私はシャリア。よろしくね。アレス」

シャリアと名乗った少女はそう言いながら、少年に手を伸ばした。

「あぁ、うん。……よろしく、シャリア」

少年はその手に応じるようにシャリアに触れ、手を交わした。

「じゃあ、次の質問ね。年齢はいくつ?」

「ね、年齢? 年齢はえっと……な、七歳くらいで……」

シャリアとの会話は、思った以上にはずんだ。訊けば訊くほど互いの理解が深まりあって、一歩一歩わかりあえているような気がした。

彼女の名前はシャリア。年齢は同い年の七歳。誕生日は三月24日。好きな食べ物はとうもろこし。嫌いな食べ物はきのこ。好きな遊びは鬼ごっこで、嫌いなのはかくれんぼ。町の薬屋の娘で、早朝には病人のところへ薬を配達したりもしてるそうだ。

そんな風に楽しく話していたら、いつの間にか日が傾き、強い西日が少年とシャリアを照らすほどにまでなっていた。

「あ! もうこんな時間! 私、帰らないと!」

「……そっか。……うん。元気でね」

少年はシャリアとの別れを、少し残念に思った。もう少したくさん話していたかったから、名残惜しさを感じた。

「ん! そうだ! 最後に一つ、訊いてもいいかな?」

「うん! いいよ」

「その帽子、なんでかぶってるの?」

少年は一瞬黙り込んだ。この帽子、どうしてかぶってるの。その疑問は、散々母に問うてきたが、未だに教えてもらえた試しがないものだった。

教えられない理由があるのかと訊いても、あると一言答えるだけで、具体的にどうして教えられないのかは答えてくれなかった。

「……か、かっこいいと……思ってさ……」

少年はこの帽子のこと、この帽子を人前でとること、この帽子の中のことは、母にとって何かのターブのようなものだと考えていた。

だからシャリアにはほんの少しの申し訳なさを抱きつつも、少年は適当なことを言って、誤魔化した。

「そう……。うん! 確かにかっこいいと思う!」

少年はシャリアのそんな言葉を聞いて、心の中で少し安堵した。ああ、誤魔化しは効いたんだな、と。

「じゃあね! また明日!」

シャリアはそう言い残して足早に庭の端、最初に這い出てきた茂みのところに駆けて行った。どうやら、そこから帰るみたいだ。そしてシャリアは茂みの中を通って、庭から出ていった。

「……なんか……やたらと距離が子だったな……」

少年は、ああいう距離の詰め方をしてくる人は苦手なはずだった。だけど、どうしてだろう。今日は、なぜかすごく嬉しかった。

少年はほんの少しの笑みを浮かべながら立ち上がり、家の扉を開けた。

その日を境にというもの、少年は毎日のようにシャリアと一緒に言葉を交わした。いつも同じだった世界の景色が、一気に変わったような気がした。

母も「最近明るくなったわね」と喜んでくれた。そして同時に「どうして? 何かあったの?」と訊かれたりもした。

だけど、少年は一切答えず、シャリアのこと、毎日会って一緒に話していることを、母に伝えはしなかった。

少年は、母が自分を他人とかかわらせたくないと思っていることを知っていたから。でも、母がなぜそう思うのかを、少年は知らなかった。

例えそこになにか思いがあり、そうして息子を縛ることが母にとって苦しいことだったのであったとしても、そうする理由を少年は知らなかった。

少年は毎日のようにシャリアと会い、話し、笑っていた。そしてそんなある日、シャリアは言い出した。

「ねぇ、いっしょに外で遊ばない?」

それは少年が『勇者の伝説』の本をシャリアに読み聞かせて、その話が丁度終りを迎えた頃のことだった。

「え? どうしたの? 急に……」

「だって……アレス、ずっとここにいるじゃない? だからたまには外に出てみたらどうなのかな……って……!」

少年は、最近母と買い物に行くことを辞めずっと家の裏手でこの本を読んだり、シャリアと話していたりした。だからもうかれこれ、おおよそ十数ヶ月は家の敷地から出ていないかも知れない。

「で? どうなの?」

「そ、それは……」

シャリアの問いに、少年は難色を示す。

少年は母から『私と一緒でないと外に出てはいけない。』と言いつけられていた。少年は言いつけを守ろうと思っていた。

歯向かえばどんなペナルティが課されるかわからないし、何よりも大好きな母に歯向かいたくなんてなかったから。

だけど、シャリアの質問に対して、首を横に振るのも嫌だった。少年にとって、彼女は人生で初めての友達、だったから。

少年は母か、シャリアかの間で揺れた。大好きな母の言いつけを破りたくなんかないし、初めての友達に捨てられたくもない。

「僕は……。僕は……! えっと……その……」

少年はどうするべきだろうと、地面を睨んだ。

そしてシャリアはというと、そんな風にウジウジしている少年を見て少しずつだが苛立ちを募らせていた。

そして数秒も経たない内に、シャリアは募らせた苛立ちを爆発させる。

「んもう!! グダグダしてないで、さっさと決めてよ!」

「ご、ごめん! でも……」

謝っておきながら、少年の態度は何一つとして変わっていなかった。

「あぁ、もう!」

そう言って、シャリアは少年の手を取った。

「え? ちょ……シャリア……!?」

「いつまで経っても決めない、アレスが悪いんだからね!」

少女はそう言葉を吐き、少年の手を掴みながら茂みの中に飛び込んだ。

「い、痛いよシャリア!」

シャリアは少年の声に耳を貸さず、植え込みの中をずんずん進んでいく。少年は何もできないまま引っ張られ、そのまま家の敷地から出てきてしまった。

「ま、まってよシャリア……。僕、家から出たらお母さんに怒られちゃうよ……」

シャリアに手を引かれながら、少年はそう言った。しかし、シャリアは止まらないし、腕を放してもくれなかった。

少年は仕方なくシャリアに手を引かれて歩き続ける。感じていたのは、母への罪悪感。そして、ほんの少しのなにか別の感情だった。

「さあ、着いたわよ!」

10分ほど歩いたところだっただろうか。シャリアは言い、立ち止まった。

家からも少しだけ見える、小高い丘を越えたあたりだった。そこには木が一本も生えていなくて広い原っぱで、遠くには森が茂っていた。そしてその原っぱには子どもが数人、楽しそうに遊んでいた。

「どう? いいところでしょ?」

シャリアは何故か自慢げに、少年の方へ目をやった。

でも少年は無反応で丘から下を見下ろしていた。どうしてそんな風に見下ろすだけで他に何もできなかったのか。少年にはまだわからなかった。

でも、そこに広がっていたのはただの原っぱじゃなくて、いつも母の隣から眺めていることしかできなかったあの風景。自分も混ざりたいと、何度思ったかももうわからないような、そんな景色があった。

「あ! おい見てみろよ! シャリアだぜ!」

下で遊んでいた子どものうちの一人が、シャリアを指さして言った。

「ホントだ! シャリアだ!」

「シャリア久しぶり!」

その一人が放った言葉を皮切りに、次々と子どもたちがシャリアに視線を移した。

「うん。みんな。久しぶり!」

シャリアはそう言いながら少年の手を引き、丘の下の方へと降りていった。そうして降りていった先で、シャリアはすぐに別の子どもたちに囲まれてしまった。

少年は内心気まずくなりながら、シャリアとその周りの横目でチラチラと子どもたちの様子を伺っていた。

そんな中、シャリアを囲んでいた子どもたちのうちの気が強そうな一人と目があってしまった。少年は突然気まずさが津波のように押し寄せ、咄嗟に目をそらした。

「……なあ、シャリア。コイツだれだ?」

同い年くらいの赤毛の子が言った。そして他の子どもたちの意識が、一気に少年の方に向かった。

「ん? あぁ、アレスっていうんだよ。私の友達なんだ!」

シャリアは三歳くらいの子の頭を撫でながら、そう皆に紹介した。

「へー。シャリアの友達かぁ……」

そんな紹介と、それに対する反応が続く中、少年は気恥ずかしさで少し赤くなりながら地面と睨み合いをしていた。

直後、少年の肩に人の重みがのしかかった。そして、耳元で。

「よろしくな! アレス!」

と。そんな言葉が響いた。

「え?」

突然のこと過ぎて、少年は混乱と共にそう声をもらした。

「なんだ? だって友達の友達は友達って、父ちゃんが言ってたんだ! だからもちろん、シャリアの友達のお前とは友達だぜ? ま、シャリアとは親友だけどな!」

「えぇ? 私、あんたと親友になった覚えなんかないわよ?」

「あ? そうだったっけ? まあいいんじゃね?」

少年は赤毛の子に肩を組まれ、どうすればいいのか全然わからなくなってしまった。それでシャリアに視線を送り、何度も助けを求めた。

しかし、シャリアから帰ってきたのはサムズアップで、助けではなかった。少年は誰かに対して軽くこそあったが、初めて恨みを抱いた。

「なあ、アレス。俺の名前、レイツっていうんだ。今後、よろしく頼むぜ」

肩を組んできていた赤毛のレイツは勢いよく少年から離れ、他の子どもの前に飛び出した。

「さあ! お前らもさっさと自己紹介しろ? これからは、コイツもお前らの友達に加わるんだからな!」

レイツがそう言ったのと同時に、シャリアが同い年くらいの金髪の男児を軽く突き飛ばし、一歩前に進ませた。

「お、俺の名前はランペル! ここの町の靴屋の息子で……。あ! あと、足が早い!」

ランペルは振り返って元の位置に戻りながら隣の子どもの背中を押して、小太りの子をシャリアがしたように一歩前へ進ませた。

「あ……ぼ、僕はテルン……いうんだ。……よろしく」

そんなテルンの自己紹介の最中にシャリアは移動し、周りよりも少し小柄な少年と少女の後ろに駆けていった。そしてその二人の肩に手を置き、言った。

「こっちの二人はヴェーリャとヴィーリャ! 男の子の方がヴェーリャで、女の子の方がヴィーリャだよ! 双子なの!」

「「よろしく!!」」

怒涛の自己紹介に気圧されて、いつの間にやら少年は少し及び腰になってしまっていた。

すると、そんな風にウジウジしている少年の後ろにシャリアが回り込み、自分の勇気を分けてあげるみたいに、そっと肩に触れた。そして。

「がんばって……」

小さく呟いた。少年はなんだか気恥ずかしくなりながらも奮い立ち、声を出した。

「え、えっと……アレスっていいます。よ、よろしく……」

……なんとか言い切った。そして少年は今の自己紹介を聞いて彼らがどう感じたのかと思い、一抹の不安を胸に眼前の彼らの様子を伺った。

「あぁ、よろしくな! アレス!」

レイツが言った。

「これから仲良くしようね……」

「みんなで楽しくやってこうね!!」「一緒に楽しく!」「ね!」

テルン、ヴィーリャ、ヴェーリャがそれぞれ言った。

「さ、遊ぼうぜ! 何して遊ぶ? せっかくアレスも居るわけだし、楽しいのがいいよな!」

「そーだね!」「楽しいのがいい!」「ね!」

「どんなのが……いいかな? かくれんぼ……とか……?」

「えー……私やだよー……」

柔らかで、和やかで、仲よさげな言葉の応酬。少年はずっと遠くにあった気がしていた景色がこんな近くまできていることに、未だに実感を得られずにいた。近寄りがたかったのは、きっとそのせいだろう。

「……? どうしたんだ? アレス。早く来いよ! お前も仲間なんだからさ!」

レイツが少年に向かって手を招く。少年は勇気を出して一歩踏み出した。

それからは、確か鬼ごっこをしたと思う。かくれんぼでも良かったけど、シャリアが嫌がるから結果的に鬼ごっこをすることになった気がする。

誰の足が早かっただとか、逆に誰が遅かっただとか、アクシデントがあっただとか、なかっただとか、少年はよく覚えていなかった。

だけど、楽しかったことだけは覚えている。他のすべてをおざなりにしてしまっても構わないほど楽しかった。そのことだけは覚えていた。

しかし、楽しい時間ほど、早く終わってしまうものなのである。

「……もう日が沈むな」

そんなレイツの言葉に少年が気づかされた、その時にはもうすでに空がオレンジかかってきていた。

「そうね。もう帰った方がいいかも知れないわ」

「そーだね!」「僕達帰る!」「ね!」

「みんなが帰るなら……僕も帰るよ……」

シャリアが、ヴィーリャとヴェーリャが、テルンが、みんながそう言った。ああ、もう終わりなんだ。少年の脳裏にそんな言葉が言いようのない名残惜しさを残して流れていった。

「じゃ、解散だな。それじゃあなぁー!」

「う、うん……」

「ばいばい!!」「ね!」

「みんなじゃあね」

みんなが思い思いの言葉を交わし、ここから去っていく。少年は寂しさを紛らわすように身を翻し、家の方へと歩いていった。

「あ! そうだ! ねえ! アレスー!」

そんな少年に向かってシャリアは大きく手を振り、遠くから声をかけた。少年はなんだろうと思い、振り返る。

「また、明日もここで、遊ぼうねー!!」

その言葉を聞き、少年は夕日よりも目を輝かせた。そうだ、明日があるんだ。明日もまた、ここでみんなと楽しい時間を送ることができるんだ。

シャリアの言葉一つで、少年の感じていた寂しさはすぐに明日への希望に近しいものに変わった。少年は空気を吸い込み、希望で胸を膨らませてシャリアに叫んだ。

「うん! また……また明日ねー!!」

夕日が邪魔をして、シャリアの表情はよく見えなかった。でも少年には、夕日の輪郭に象られたシャリアの黒い影がにこりと笑ったように見えたのだった。

少年ははち切れんばかりの笑顔を表情に貯めて、家に向かって走った。鬼ごっこをしたせいかすごく疲れていたけど、そんなのちっとも気にならなかった。

少年は飛びつくように扉を開けて、家の中に駆け込んだ。その頃には、家を出たときに覚えていた母への罪悪感なんてとっくに上書きされてしまっていた。

しかし、そんな罪悪感はすぐに蘇ることになる。

パン――ッ!!

家に駆け込んだ少年の頬に、強烈な平手が飛んだ。母の平手だった。少年はわけも分からぬまま打たれた頬に手を触れ、困惑を浮かべた目で母を見上げるしかなかった。

「お母さん……? どうし……」

「黙りなさい!!」

必死の思いで絞り出した言葉も、母の一言に容易く弾かれてしまった。

「どうして、お母さん以外の誰かと一緒にいたの!?!? 挙句の果てには外出までするなんて……!  お母さん、言ったでしょう!? お母さんと一緒の時以外は外出しないでね……って!」

母は少年が口を開くことを許さないかのように言葉を浴びせ続ける。

「……これからは、ずっと母さんの目の届く範囲にいてもらいます。そしてもう、誰とも会っちゃいけません」

「……はい」

本当は嫌だったけど言いつけを破ったのは少年の方だったし、始めは罪悪感を感じていたのも確かだった。

誰がどう見ても、明らかに自分に否があったから。

それからというもの、少年はずっと母と一緒に行動した。こっそり逃げ出そうとしても、それは叶わない。母が、ずっと目を光らせていたから。

一緒に買い物に行ったり、一緒に家で言葉を交わしたり、そんな母との時間が楽しくないわけじゃなかった。でも、少年は物足りなさを感じていた。

友達と育む楽しさと母と紡ぐ楽しさは別物だった。少年はどっちも両立できたらいいのに、と叶わない夢を何度も見ていた。

その日、少年は母と並んで道を歩いていた。こうしている間、少年は幸せだった。でもやはり、物足りなさは拭えずにいた。そんな時、街でシャリアを見かけた。

少年は、最初は無視を決め込もうかと思っていた。だけど、先に向こうが気づいてしまっていた。

「アレス! どうしたの? あれからぱったり遊びに来なくなって……庭にもいなかったし……なんか病気でもしてたの?」

シャリアは心配してくれた。でも、少年は俯いて無視を決め込む。シャリアは不思議そうな顔をしてアレスの顔を覗き込もうとした。

「……いくわよ。アレス」

そんな時、母がアレスの手をぐいっと引き、連れて行った。シャリアは、その様子を何かを察したように見つめていた。

次の日、少年が母と一緒に掃除をしていると、窓の間に白い折りたたまれた紙が挟まれていることに気がついた。

なんだろうと思って、少年は母の目を盗んで窓から取った髪を、開いて中を見てみた。すると、中からはシャリアの名前が綴られた手紙と、薬包紙が出てきた。

シャリアの手紙の内容は。

『久しぶり。昨日会った時は本当に元気がなくて、びっくりしたよ。あれ以降、遊びにこなくなったのは多分、アレスがお母さんの言いつけを破ったせいだよね。元はと言えばアレスの手を引いて無理やり連れて行った私が悪いのに……ごめんね』

と書かれていた。そして最後に。

『同封した紙の中には睡眠薬が入ってるんだ。だからうまく使って、また遊びに来てね』

手紙はそう締めくくられていた。そして、同封されていた薬包紙の中身は睡眠薬だったらしい。少年はシャリアの家は薬屋だから、こういうのも持っているんだろう、と思った。

「うまく使って……」

少年は手紙の言葉を反芻する。もう、この薬をどう使えばいいのかなんて大体わかっていた。

次の日、少年は早速母の昼食に薬を盛った。シャリアが手紙で言っていたうまい使い方とは、多分こういうことだろう。

数分後、母は机に突っ伏して眠り始めた。うまく使ってまた遊びに来てね。少年は罪悪感に苛まれながらも、手紙の内容を頭の中で繰り返し、家の外に出た。

そして、いつかのあの原っぱの方に歩いていった。足取りは遅かった。だけど着実に母のいる家から遠ざかっていた。

しばらく歩き、少年はあの原っぱに着いた。そこにはレイツもシャリアも他のみんなもいた。

「あ! アレス!」

シャリアが指を差し、声を上げ、少年のもとに走る。

「おっ! ホントだ。久しぶりー!!」

レイツはそう言って大きく腕を振った。少年はあの日のようにシャリアに手を引かれながら、みんなの所へと下っていった。

「今、鬼ごっこしてんだ。お前も一緒にやろうぜ!」

レイツがそう言って走り出した。それと共鳴するように、みんなも。

「うん!」

少年はレイツの言葉に答え、みんなの後を追って走り出した。

そしてしばらくして太陽がある程度傾いてきた頃、少年は一足先にみんなに別れを告げ、家に帰った。シャリアからそろそろ薬の効果が切れる頃だと言われたから。

そして別れ際、シャリアに呼び止められて、次の分の睡眠薬をもらった。

母に薬を盛るなんて、良くないことなのはわかっていた。しかし、少年は言い聞かせる。自分に好きにさせない母が悪いのだ、と。自由に、とまではいかずとも、友達と遊ぶことさえ許さない母がいけないのだ、と。

少年は心の中で誰も聞こえない言い訳に近しい何かをブツブツ呟きながら、家への道を歩いた。

そうして家に帰り着いた時、母はまだ眠っていた。少年は、もし母が起きていたらまた叱られてしまうんじゃないかと考え、内心ビクビクしていたので少しホッとしていた。

少年は証拠を隠すために服に着いた枯れた芝の葉や土を払い落とし、靴を家から出たときとまったく同じように並べた。

そして最後に隠し残しがないか確認し、母の肩を揺すった。

「お母さん起きて。起きてよ!」

「んん~……」

「起きてってば!」

「ん? あぁ……アレス……どうしたの?」

「お母さん、寝ちゃってたんだよ。お昼からずっと」

少年は自らが言いつけを破り、外に出たことを誤魔化すために嘘をついた。

「……そうだったの? 悩んでる間に寝ちゃったのかしらね……」

「悩んでる間……? お母さん、悩み事してたの?」

「ううん。アレスには全然関係ないの。だから忘れてくれて大丈夫よ」

母が不思議なことを言うので、少年は首を傾げたのだった。

結局、その日のうちに母が少年の外出に気づくことはなかった。

========

「み、みんなは遊びに行ってて大丈夫だよ! シャリアは僕が見ておくから!」

少年は一連の流れを見ていたレイツたちに言った。

「いやぁ……でもよ。もとはといや俺のせいだぜ? ……だから俺も見とくよ……。なんかアレスに申し訳ないしな……」

レイツは申し訳なさそうに頭を掻きながら少年とシャリアの方に歩いて行こうとした。

「あ……。じ、じゃあ僕も……」

後を追うみたいにテルンも言い、その足を一歩前へ。しかしそんなレイツとテルンの前に、突然ヴィーリャが立ちはだかった。

「だめ!! 行っちゃ、駄目だよ!」

そしてそんなヴィーリャに呼応するように、ヴェーリャも並んで立ち塞がった。

「え? なんでだよ……」

「いいから行くの!!」「行く!」「の!」

「おぁ! お、おい! 一体なんだってんだよ!」

そんなふうにヴィーリャとヴェーリャに押されて、レイツとテルンはシャリアたちから遠ざかっていった。

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